盗んだティピカが巡り出す

「盗んだ」というのはいかにも聞こえが悪いけれど、イエメンで持ち出しを禁じていたため、最初期のコーヒーノキの伝播はいずれも「種子や苗木をこっそり盗んで、こっそりと持ち出した」ものだった。今日的な観点から、あるいはイエメン側から見れば、ただの「盗み」かもしれない。だが少なくとも当時は、そして持ち出した国の側から見れば、それは大いなる挑戦であり、彼らは「成功した冒険者」でもあった。

「回僧ブダン?」の伝説

イエメン外に持ち出された記録で、もっとも年代が古いのは、インドからメッカへの巡礼者ババ・ブダンが、その帰りに7粒の種子*1をこっそり持ち帰り、インド・マイソール地方に植えた、というものだ。ただし、史実としてはあまりはっきりした証拠が残っておらず、年代についても1600年と1695年の二つの説がある*2。仮に後者だとしたら、それはオランダによる持ち出しよりも時代が新しいことになる。

「ひょっとしたら」の話だが、この二説の裏に「コーヒーを持ち出した『一番乗り』争い」があったのかもしれない。オランダは当然、自分たちこそが「最初」である…つまり「最初にコーヒーノキをイエメンから持ち出した(1616)」「最初にイエメン以外での栽培に成功した(1658, セイロン)」「最初にイエメン以外での商業化に成功した(1699,ジャワ)」ということを主張したかっただろうし、そうなると自分たちより以前にインドに渡っていたという説は受け入れがたかったに違いない。このことが、ひょっとしたら「インド、1695」という説を広める上で一つの動機になったかもしれない。

ただしもう片方の説もあやふやだ。ヨーロッパの記録に残らないような形で、イスラム圏で伝播されていた可能性は、確かに低いとは言えないし、説得力もある。どうやらオランダが持ち込む以前に、インドに「コーヒーノキ」らしきものがあった、というのは確からしいのだが、これも元々、インドに自生していたベンガルコーヒーノキ*3のことを指している可能性もあって、はっきりそうとは言えない。さらに、それをもたらしたのがババ・ブダンだったのかどうかも、本当のところは判らない、というのが現状だ。


今日「科学の力」で確かめようにも、インドでは1800年代にさび病の蔓延で壊滅的な被害を受けたのに加えて、その後、耐病性品種の探索と研究が行われていく過程で、古い品種がすべて失われてしまっている。こうなってしまうと、残念なことに遺伝子解析による裏付けも取れない……今後もし、インドの山奥に残された「古いティピカ」が見つかるようなことがあれば、非常に大きな発見につながる可能性が期待できるのだが。

盗みとるオランダ人

まぁババ・ブダンの伝説の真偽は大いに興味があるところではあるが、検証できないものに拘っていても進まない。次の「盗人ども」の話をしよう…オランダである。オランダはヨーロッパの中でもいち早く、商品としてのコーヒーに着目した国である。1616年にはピーター・ファン・デン・ブルックが、実の付いたコーヒーノキの苗木を「こっそり」イエメンからオランダ本国に持ち帰っている…これがヨーロッパに届けられた最初のコーヒーノキであった。

さらに、オランダは1640年頃からイエメンからの本格的なコーヒー輸入を行うようになり、おそらくはその取引を通じて知り合ったイエメン人の誰かから、こっそりコーヒーノキや種子を入手可能になったのだと考えられる。これらの取引は基本的に「民間企業」である、オランダ東インド会社が仕切っていたが、国家としても植民地政策としてコーヒー栽培に着目していたのは、言うまでもない。


1658年、オランダはイエメンから「こっそり」コーヒーノキを持ち出し、セイロン(スリランカ)での試験栽培に成功する。一説にはこのときのコーヒーノキがインドに伝えられ、インドのアラビカの起源になったとも言われる。


1690年、後にオランダ東インド会社総督になったジョアン・ヴァン・ホールンhttp://en.wikipedia.org/wiki/Joan_van_Hoorn)が、イエメンの貿易商からコーヒーの種子を「こっそり」入手し、それをジャワ島のバタビア(当時、オランダ東インド会社のジャワ本拠地があった)に持ち込み、彼の家の庭に植えた……これがインドネシアに初めてもたらされたコーヒーだと言われる。

一説には、後にオランダ本国に持ち込まれた一本のコーヒーノキがこのときのものの子孫だと言われる…もしこの説が正しいなら、リンネがCoffea arabicaと名付けた植物も、やがてド・クリューがマルチニーク島に運び、中南米のティピカのルーツになった苗木も、すべてがこのときの子孫ということになるのだが、まぁこの辺りも本当かどうかよく判らない部分の一つだ。

というのは、ジャワへのコーヒーノキの持ち込みはこの1690年だけではなく、その後も何度か行われてるからだ。最終的に成功をおさめたとされるのは、1699年、インドのマラバールからジャワに送られたときのもので、このときの子孫がジャワ全土に広がっていったと考えられている。このマラバールからジャワへの輸送は、完全にオランダの手の内の出来事であり、「真っ当な取引」の範疇で、そこに「盗人」の活躍はない。

ただし、そもそもマラバールにあったコーヒーの出どころがどこなのか……ババ・ブダンがインドに伝えていたものなのか、こっそりセイロンに持ち出された後でインドに渡ったものなのか、あるいはヴァン・ホールンがこっそり入手していたものの子孫か、またはこの年にまた新たにイエメンから「こっそり」持ち出されたものなのかもしれない。

しかし、そのどれだったのかについては、何の証拠もない今となっては判らない。というより、足がつくような証拠を残すようでは、盗人としては三流だろうから、証拠がないのが当たり前なのだろう。後から検証しようという僕らにとっては厄介な話ではあるが。

(番外)一方、パリェタは

少し時代は下り、「出イエメン」とは無関係な余談になるが、「こっそり持ち出した」という話であれば、ブラジルへの伝来時のエピソードも忘れてはなるまい。

フランス海軍将校ド・クリューは、コーヒーノキ中南米に伝えようという強い決意のもと、再び大海原に乗り出した……パリの植物園から譲り受けた、たった三本のコーヒーの苗木。大西洋を渡る数ヶ月の航海の間、これを枯らさずに運ぶのは並大抵の苦労ではなかった。時には、同じ船に乗り込んだ乗員たちが苗木にいたずらをすることもあったし、船に積んだ真水が不足して飲み水が配給制になったときは、自分の飲み水を苗木に与えたりもした。そして、ついにド・クリューはマルチニーク島にコーヒーノキを伝えるのに成功したのである……


一方、パリェタはフランス領事夫人をたらしこんだ*4

中南米にコーヒーが伝えられたときのエピソードとして、もっとも有名なのはフランスの海軍将校ド・クリューの話だろう。有名すぎてわざわざ説明するのも面倒なくらいだが、概略としては、まぁ上に書いたような感じ。これが中南米のティピカのルーツである、ということは、まぁ概ね正しいだろうが、実は中南米には、ド・クリューの航海よりも前にコーヒーノキが伝わっている。
一つはフランス領だったハイチ。もう一つはオランダ領だったスリナム(蘭領ギアナ)である。1718年スリナムに移入されたコーヒーノキは、1725年に東の隣国、仏領ギアナに「こっそり」持ち出され、さらにそれが「こっそり」ブラジルに持ち込まれた。このときブラジルに持ち込んだ立役者がフランシスコ・デ・メロ・パリェタである。

このエピソードも、ド・クリューの次くらいに有名なので、かいつまんで言うとこんな感じ。

1727年、スリナムと仏領ギアナで国境問題が勃発したとき、当時ポルトガル領だったブラジルから、調停役としてのパリェタが送り込まれた。当時まだコーヒーノキを入手できていなかったポルトガルはパリェタにもう一つの密命として、その入手を命じていた。
美男子だった(といわれてる)パリェタは、フランス領事夫人と懇ろになり、コーヒーノキを何とか手に入れようとする…が、当時仏領ギアナでもコーヒーは持ち出し禁止。そこで夫人は一計を案じ、彼がブラジルに帰る日に花束を渡す……5本のコーヒーノキの苗を忍ばせて。そして、パリェタはまんまとコーヒーノキを入手し、それをパラ州に植えた…これがブラジルコーヒーのルーツである。

「ロマンチックな話」と捉えるか、「一人の女たらしの話」と捉えるかは、まぁ人それぞれであろう。が、この話はブラジルのコーヒー関係者にとっては「国の誇り」に関わる話だと言うことは、知っておいて損はあるまい。というのは、このエピソードは、南米のコーヒー産地の中で「ブラジルは独自に、最初期からコーヒー栽培をはじめていた*5」という証拠だからだ。

*1:コーヒーの実ごと持ち出したとも言われる

*2:アントニー・ワイルドは、1695年を「文献上でインドにコーヒーノキがあったことが記されてる最も古い年代」としているが…。

*3:現在はPsilanthus属に分類されている

*4:わかる人にはおわかりだろうが、「一方ロシアは鉛筆を使った」が元ネタ。

*5:「コロンビアやコスタリカとは違うんです」ということ。