はじまりの物語 (9)
ここから、15世紀のイエメンでのコーヒーの歴史をちょっとずつ、ひもといていきます。
- (15世紀以前)
- 9世紀- エチオピアで、キリスト教徒(アクスム王国)とイスラム教徒(アラブ商人)が内陸部に進出。西南部エチオピア人の奴隷取引が始まる
- 925 ペルシャのアル・ラーズィー『医学集成』に「ブン/ブンクム」が記載される
- 1010-1020頃 ペルシャでイブン・スィーナー『医学典範』にブンクムが記載される
- 1021 イエメンのザビードで、エチオピア人奴隷出身者たち(=アビード)がナジャーフ朝を興す(-1159)
- 13世紀 ウマル・ワラシュマがマッカ(メッカ)からエチオピアに渡り、イファト・スルタン国を興す
- 13世紀後半 (1258-) シャイフ・ウマル(=シェーク・オマール)のコーヒー発見伝説(ド・サッシー『アラブ文選』脚注96、トルコの地理学者の文献から引用)
- 1316 エチオピア皇帝アムダ・セヨンが西南部のダモトやハドヤに侵攻
- 1328頃 アムダ・セヨンがイファト・スルタン国に侵攻、ワラシュマ家がゼイラへ向け逃亡
- (1330頃 イブン・バットゥータがイエメンに旅行/イブン・バットゥータ『大旅行記』)
- 1410 (1403とも) エチオピアのゼイラでワラシュマ家のサダーダッディーンII世が死亡し、彼の子らがイエメンに逃亡
- 1418 アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーが死亡。イエメンの人々に「カフワ」を広めたと言われる(アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』、パリ王立図書館版、アル=マッキー『コーヒーの勝利』から引用)
- 1420-30頃 イエメンのアデンで交易が一時的に衰退
- 1435頃- アデンの交易が復興に向かう
- 1435頃 ハドラマウトの主港シフルがキンダ族に侵略される
- 1442 ラスール朝最後のスルタンが死去し、後継者争いが起きる
- 15世紀後半? ジャマールッディーン・アッ=ザブハーニー(=ゲマルディン)がアデンでコーヒーの利用を合法と認める
- → 1454頃(?注) ザブハーニーがアラビア半島でコーヒーの飲用を是認(ユーカース『オール・アバウト・コーヒー』)
- → 15世紀半ば? ザブハーニーとアル=ハドラミーが公衆の面前でコーヒーを飲んだ記録(アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』、パリ王立図書館版、イブン・アブドゥル=ガッファールからの引用)
- 1454 ラスール朝が滅亡し、ターヒル朝が興る
- 15世紀後半? コーヒー利用がイエメンからマッカに伝わる
- 1470 ザブハーニーが死亡
- 1474 ユースフがザビード総代になる
- 1478 ユースフが政争に敗れ、マッカに逃れる
- 1490頃 マムルーク朝やマッカの使節団がイエメンを来訪
- (16世紀以降)
- 16世紀初頭 ファフルッディーン・アル=マッキー『コーヒーの勝利』。「20年以上前からマッカでキシルの利用が見られたが、それから作るカフワは15世紀最後の10年まで伝わらなかった」(アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』)
- 1500-1510頃 コーヒー飲用がカイロに伝わる(同上)
- 1511 マッカの長官ハイール・ベイが大規模なコーヒー弾圧(マッカ事件)
- 1517 ターヒル朝がマムルーク朝に滅ぼされ、イエメンが分割される*1
- 1517 オスマン帝国がエジプト・マムルーク朝を滅ぼす
- 1530頃 イブン・アブドゥル=ガッファールのコーヒーに関する文書。「90歳を超えるザビードの長老の一人が、若い頃、ザブハーニーがコーヒーを公衆の面前で飲むのを見たと証言」(アブドゥル=カーディル)
- 1538 オスマン帝国がイエメン全域を支配
- 1557 アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』 エスコリアル修道院版(初版?)が書かれる
- 1587 アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』 パリ王立図書館版(第二版?)が書かれる
この時代のコーヒーの可能性
ユーカースが著した"All about coffee"の巻末にある年表( http://www.web-books.com/Classics/ON/B0/B701/42MB701.html )には、以下のような記載が見られる。
1454[L]―Sheik Gemaleddin, mufti of Aden, having discovered the virtues of the berry on a journey to Abyssinia, sanctions the use of coffee in Arabia Felix.
(邦訳) 1454年頃*1 - アデンのムフティで、アビシニアへの旅行中にコーヒーの実の効き目を発見していたシェイク・ゲマレディンが、アラビア半島でコーヒーの利用を是認する。
この「シェイク・ゲマレディン」という人物は、コーヒーの歴史を語る上で欠かせない最重要人物である。本稿では、「ジャマールッディーン・ザブハーニー」、以降「ザブハーニー」と表記する(2013-3-16の記事を参照)。その人物像については多くの考察が必要なため、また後日改めて論じたい。とりあえず今は、現存する文献の中で、アラビア半島ならびにイエメンでの利用の、最も古い記述に関する人物だということを述べておきたい。
この「1454年頃」という年代の出所は、実はかなり曖昧である(後日論じる予定)。しかしザブハーニーの没年は1470年だとはっきりと記録されており、1470年以前、つまりざっくりと「15世紀前半か、そのあたり」には「アデンでコーヒー利用が是認されていた」と推定される。つまり15世紀前半は、イエメンでの「飲み物としてのコーヒー利用」が始まっていた可能性が高い時代なのである。
残念ながら、15世紀中の文献にコーヒーについて直接言及したものは見られない…当時の文献は、もっと社会的に大きな事件について述べたものばかりで、コーヒー利用などのような社会風俗に関する史料は乏しい。ただし16世紀に入ってイスラム圏でコーヒーの利用の是非を巡る論争が起きたとき、当時の研究者たちが15世紀まで遡った記録が残されている。
中でももっとも重要な文献とされているのは、アブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』である。この文書の一部は、ド・サッシーにより仏訳され『アラブ文選 Chrestomathie arabe』(p.419 )に収載されている。その内容は英語圏で書かれたコーヒー関連の書籍にもしばしば引用されているし、またその一部は日本語訳されているので、元のフランス語が読めなくても何とか大意は掴むことはできる…ただしいくつかの本には誤訳らしき部分も認められるため、注意が必要だが。
割と安心して薦められそうなものとして、次の二つを挙げておきたい。
- 岩切正介「コーヒーとカフェの起源と広がり:イスラム世界」 横浜国立大学教育人間科学部紀要.II,人文科学 第1集(1998) p.23-44 http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/handle/10131/995
- ラルフ・ハトックス『コーヒーとコーヒーハウス』(斉藤富美子・田村愛理 訳) 同文舘出版 http://www.amazon.co.jp/dp/4495858416
*1:年表の最後に "[L] Approximate Date."という脚注がある。
イファトの末裔、ワラシュマ家の到来
1403年ないし1410年、エチオピアでソロモン朝との戦いに敗れたイファト・スルタン国ワラシュマ家の「最後のスルタン」、サーダッディーンII世が、逃亡先のゼイラで殺された。この時、彼の10人の子どもがイエメンに逃げ延びたと言われている。1415年、彼の長子サブラッディーンII世が再びゼイラに戻り、アダル・スルタン国を興した。このことについては、以前( http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130213 )も述べた。
ワラシュマ家の人々、あるいはそれと一緒にやってきた者たちが、本当にエチオピアからイエメンに、コーヒーの利用やコーヒーノキそのものを持ち込んだかどうかについては「わからない」としか言いようがない。また、そもそも彼ら自身がコーヒーを利用する者だったかどうかも不明である。しかし、その可能性は考慮に値するだろう。
アブドゥル=カーディルの『コーヒーの合法性の擁護』でも、イエメン以前に「イブン・サーダッディーン Ebn-saad-eddin」すなわち「サーダッディーンの息子」の国でコーヒーが使われていた可能性は否定できないという趣旨の言及がある。この「イブン・サーダッディーンの国」がどこを指すのかについて、ド・サッシーが脚注(34)で詳しく考察しており、ゼイラかアダル付近のどこかを指すだろうことや、彼らがイファト・スルタン国に渡った"Omar et surnommé Wahchama"すなわち、ウマル・ワラシュマの子孫であることなどを指摘している。
ワラシュマ家の人々がイエメンのどこに逃げ延び、どのような生活を送っていたのかについては全く判らない。ただし、この当時はまだラスール朝下でアデンの交易が廃れる前で、またワラシュマ家がゼイラに帰還する際には、おそらくイスラム商人たちに紛れていただろうことから、ゼイラとの行き来の際に、アデンが利用された可能性は高そうだ。
また、ワラシュマ家の一部がザビードに移住した可能性も高そうに思える。ラスール朝時代、学術都市として繁栄していたザビードは、同時にエチオピア由来の奴隷たちが多く暮らす都市でもあったからだ。「奴隷たち」とは言っても、イスラム世界におけるイメージは後世の西欧社会のそれとは少し異なり、「マムルーク」のように奴隷階層の出身者たちが力を付けて、王朝を成立させた例も少なくない。マムルークがペルシャやトルコの奴隷階層出身の軍人であったのに対し、エチオピア出身の黒人を起源とする彼らは「アビード」と呼ばれた。彼らは11-12世紀にザビードで独自の王朝(ナジャーフ朝)を成立させており、イエメンにおいて無視できない存在であった。
ラスール朝の頃、アビードは社会的立場(職業など)の異なるグループに分かれていたものの、概ね「自分たちの人種や出身に関するアイデンティティ」を持ち、エチオピアに対して共通の、特別の思いを抱いていたようだ。このような背景から「エチオピアからやってきた人々」を迎え入れる素地が、ザビードの中に存在していたかもしれない。
もっとも、「エチオピアからやってきた」とは言っても、ワラシュマ家の人々は元々、マッカの名門クライシュ族出身なので、奴隷たちのアイデンティティに直接訴えることはできなかったかもしれない。しかしそれならばそれで、ザビード近郊のティハーマ地方にはクライシュ族の人々が暮らしており、彼らがワラシュマ家の人々を迎え入れた可能性もあるだろう。
薬・嗜好品・飲み物
11世紀初頭のイエメンで、イブン・スィーナーの言う薬用としてのコーヒー「ブンカム」が存在していた可能性については、前(2013-2-20)にも述べた。しかしこの古い時代の「薬としての」利用方法と、15世紀以降のアラビア半島での「嗜好品として」、そして「宗教的飲み物として」の利用方法*1には隔たりがあると思われる。
ザブハーニーが、わざわざ「アビシニア*2(エチオピア)への旅行中に効き目を発見」したと書かれていることから、15世紀のイエメンでは、かつての「薬としての」利用方法もすでに廃れ、一般には広まっていなかったことが示唆される。少なくとも14世紀にイエメンを訪れたイブン・バットゥータの記録にも、人々がコーヒーを用いていたことを伺わせる記述はなく、少なくともラスール朝時代には市中で見られるものではなかった。
また15-16世紀のアラビア半島でコーヒーの嗜好品的な利用が紹介されると、間もなくイエメンからマッカ、マディーナ、カイロ、コンスタンティノープルへと、かなりの速度でイスラム世界に広がって行った。このときの伝播の速さから考えると、もしもっと早い時代からイエメンで嗜好品として使われていたならば、これら他の地域にももっと早い時期に伝わっていたはずであり、もっと多くの文献に名前が出てくる方が自然であろう。
イエメンで嗜好品として認知されるようになった後は、それなりの早さで普及したのだと想定すると、ワラシュマ家がゼイラからイエメンに渡った15世紀の初頭に、エチオピアからイエメンに「コーヒーを嗜好品とする知識」が伝来(または再来)し、15世紀半ばまでにイエメンの一般社会にまで普及したという推定は、そこそこ良い線を行ってるかもしれない。
ただし、この15世紀初頭からの嗜好品としてのコーヒー利用が、イスラム教徒らの宗教的な側面も持つ「飲み物としてのコーヒー(カフワ)」と同じものであったかどうかには注意が必要だ。16世紀後半のアブドゥル=カーディルの時代ですら、マッカ(メッカ)やマディーナ(メディナ)などを含んだアラビア半島で、キシル(殻)から作るカフワと、ブン(殻と豆)から作るカフワ以外にも、豆や実を食用とするなど、さまざまな形でのコーヒーの実や豆の利用方法があったことが『コーヒーの合法性の擁護』から読み取れる*3。実はそういった「飲み物ではない」の利用法が先に伝わり、その後で「飲み物としてのコーヒー」が広まっていったという記録が見られるのだ。
このことは、アラビア半島からオリエントにかけて広まっていた、いくつかの「コーヒー発見の伝説」の類型とも一致する。一般に普及している「山羊飼いカルディの伝説」や、13世紀頃の出来事だとされる「シャイフ・ウマル(=シェイク・オマール)のコーヒー発見伝説」などについては、辻静雄料理研究所・山内秀文先生の「コーヒーマニアックス」(http://www.tsujicho.com/oishii/recipe/pain/cafemania/hakken02.html)を参照されたい。どちらも最初の発見は「実を食べた」というものである。
このことから、コーヒー利用が一般化しはじめた時代のイエメンにおいても同様に「飲み物としてのコーヒー」以前に、別の形での利用…キシルやブンの利用があったのではないかと考えられる。多分それは11世紀頃の「薬としてのブン/ブンクムの利用」とも異なる「嗜好品」としての利用であった。このタイプのコーヒーの利用は、当初エチオピア起源のザビードの奴隷たちなど、社会的な下流階層の中で広まったと考えられる。このときの利用法は「嗜好品」としての側面が強い多様なもので、その後のイスラム教徒らの間で広まった「宗教的飲み物としてのコーヒー」と直接結びつけるのが難しいものだった可能性も高い。
ただし嗜好品としての多様な利用法の中から、(後述するように)スーフィーたちの手によって、彼らの宗教儀式と結びついた「飲み物としてのコーヒー」、すなわち「カフワ」が生まれたと考えてよいだろう。16世紀のアブドゥル=カーディルは、これらの利用方法の中でイスラムの教えに合ったものとそうでないものを区別した上で、「合法」と見なせる「飲み物としてのコーヒー = カフワ」だけを擁護したのである。
*1:アラビア半島でのコーヒー利用は、スーフィーが修行時に眠気覚ましとして用いるという側面もあったが、この作用は「ブン」、すなわちコーヒー豆単独で得られることが既に初期から知られていたようだ。ただしイエメンだけでなくアラビア半島の他の地域でも、その普及初期には「殻(キシル/ギシル)」の利用と、豆と殻を同時に使う方法が広まっており、時と場合によって使い分けられていた。これについては後述。
*2:アビシニアはエチオピア高地の別名。ただし、実際に『コーヒーの合法性の擁護』に「アビシニアに行った」と書かれているのではなく、彼が行った土地は"ajjam"とされている。そこをアビシニアとするのはド・サッシーの解釈による。ajjamは、アラブ人を表す"djam"に否定の接頭語が付いたもので、「非アラブの(人、土地)」を意味し、字義通りに捉えるならば彼が行ったのは「アラビア半島(イエメンからマッカ、マディーナあたり)外の土地」である。この言葉はエジプトやペルシアなどを指す場合が多いが、ソマリア半島が「バール・アル・アジャム」と呼ばれていたようにアフリカ大陸側の土地もajjamと呼ばれていた。ajjamは時としてイラン人/ペルシア人を指す言葉としても用いられ、アントワーヌ・ガランはこれをペルシアと訳したが、ド・サッシーはそれに異議を唱えてアビシニア説を採用し、後世の文献もエチオピア南西部がコーヒーノキの起源地であることから否定する材料がないとして、ほとんどがド・サッシーの説を採用している。これに関しては後日詳述する。
*3:『コーヒーの合法性の擁護』の解説を見ると、アブドゥル=カーディルは全7冊のうちの第5書を「コーヒーの悪い利用法」に関する指摘に費やしている。ただしド・サッシーによる仏訳は第1,2,7書のみであり、アラビア語以外の翻訳版はないようだ。
「カフワ」とコーヒー
もう一つ、この時代で注意して区別する必要があるのは「カフワ qahwa」という言葉が指すものである。この「カフワ」という言葉が、コーヒーの語源になったという説は良く知られているが、この当時までに「カフワ」が指していたものとしては、次のように複数の対象が存在する。
- ワインのこと。ブドウを発酵させて作った酒。
- カート(qat, khat, chat)から作った飲み物。カートはエチオピア原産の植物で、葉に覚醒作用のあるアルカロイド(カチニン)を含む。
- コーヒーの葉から作った飲み物。カフタ(cafta)、またはカフワ・アルカティア*1、エチオピアではクティ・カフワとも。
- コーヒーの実の殻(キシル)から作った飲み物。カフワ・アルキシリーヤ、エチオピアではハサール・カフワとも。
- コーヒーの殻と種(ブン)から作った飲み物。カフワ・アルブンニーヤ、エチオピアではブン・カフワとも。
元々「カフワ」とは、アラビア語で「欲を削ぐもの」という意味の言葉であり、最初は「食欲を削ぐ」という意味でワイン(=1)を指す言葉であった。一方、コーヒーやカートなどに眠気を取り去る働きがあることが分かると、これが「睡眠欲を削ぐ」ということで、これらにも「カフワ」という言葉が用いられるようになった。
そうして、コーヒーにも「カフワ」という言葉が用いられるようになるのだが、アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』では、彼の前の時代にファフルッディーン・アル=マッキーが書いた『コーヒーの勝利』から引用として、イエメンで用いられるようになった当初の「カフワ」は、キシルやブン(=5,6)からではなくカートやコーヒーの葉(=2,3)から作られていたことを記している。それが後にイエメンでキシルやブンから作るカフワが広まると、またたく間にアラビア半島一帯に広がり、カートやコーヒーの葉から作るものに完全に取って代わったのだという。
アル=マッキーからの引用は、以下の内容である。
「カフワ」を最初に紹介し、イエメンの一般社会に広めたのはザブハーニーではなく、モカの守護聖人として知られるアリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーであった。当初それはカートやコーヒーの葉(カフタ)から作られ、徐々にその利用が広まっていったのだが、ザブハーニーの時代になってアデンに伝わったとき、アデンではそれらが入手できなかった。このため、ザブハーニーがその代わりに、当時アデンで入手できたブンから「カフワ」を作ることを提案し、人々に広めたという。
アブドゥル=カーディルはこのことに触れて、人々の間に「カフワという飲み物」を広めたのはアリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーであるが「キシルやブンから作るカフワ」を人々に広めたのはザブハーニーであると述べ、「二人の開祖」がいることに矛盾はないと説明している。
このアル=マッキーの説明は「飲み物としてのコーヒー」の始まりに関わるものであり、非常に興味深い。しかし一方で、いくつかの疑問も生まれる。アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーが人々に「カフワ」を広めたのはいつ頃で、一体どこで、どうやってその「カフワ」を知ったのだろうか? またアル=マッキーによれば、それがアデンに伝わったとき、アデンでは入手できなかったというが、それは何故なのだろうか?
*1:cahwat alcatia。ド・サッシー、脚注40参照
カフワの始まり?
アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーの生涯についてはよく判っていない。ただ、その没年は1418年だとされている。18世紀後半にモカで彼の話を聞いたニーブールも「およそ400年前の人物」と記録しており、14世紀後半から15世紀初頭の人物だったと見ていいだろう*1。したがって「初期のカフワ」がイエメンに導入されたのが「いつ」かということについては、これと同時期、「14世紀後半から15世紀初頭」と考えられる。
彼はモカの守護聖人として伝えられる人物であり、現在のモカかその周辺…すなわちザビードとアデンの間あたりで活動していた可能性が挙げられる。しかし彼が広めたという初期の「カフワ」にはむしろ、いくつかの点でエチオピアの風習との共通点が色濃く見られる。
初期の「カフワ」はコーヒーの葉またはカートであったと言われる。しかしコーヒーの葉の利用は現在のイエメンには見られず、もっぱらエチオピアに見られる風習である。エチオピアでは西南部の部族(マジャンギル族の「カリオモン」の儀式)がコーヒーの葉を茶として利用するほか、ハラー地区においても「カティ/クティ・カフワ」という名前で利用されている。
カートもコーヒーと同様エチオピア原産の植物であり、現在のイエメンでは専ら生の葉を噛みタバコのように噛んで利用するのが一般的である。カートについても16世紀の初頭に(コーヒー利用と同様に)イスラム社会で合法かどうかを巡る議論があり、16世紀初頭のイエメンでも現在と同様、主に「噛んで」利用していたことが記録されているようだ。他方、エチオピアにおいてはカートからジュースを作って飲む方法が現在も見られる。これらのことから考えるとコーヒーの葉やカートから「飲み物を作る」のは、イエメンよりはエチオピアの風習に近いようだ。
アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリーが(アル=マッキーの言うように)これらの「カフワ」を「イエメンで」人々に広めたのであれば、彼自身がエチオピアに渡航して学んだものか、あるいは別の人物がエチオピアから伝えたものを彼が採用したものか…彼の没年は1418年なので、イファトから逃れてきたワラシュマ家の人々に出会うことは可能だったはずだ。
*1:同じくモカの守護聖人とされる「アッ=シャーズィリー」にはもう一人、13世紀の人物がいる。トルコの地理学者が記録したシャイフ・ウマルの伝説において、ウマルの師であったアッ=シャーズィリーである。彼は1258年にマッカへの巡礼中にザビード東部のウサブ地方の山地で死に、死後ウマルの元に現れて彼をモカへと導いたとされる。「アリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリー」の名前には「ウマル」も含まれているが、これは「イブン・ウマル(=ウマルの息子)」、すなわち父親の名前であって、本人の名前ではない。ただし紛らわしいことは確かであり、さらに後世のアイダルースなど、モカに関わる数名の聖人の話が混同されている可能性をハトックスは指摘している。
「カフワの原料」の伝来?
もしこの当時のイエメンで、実際にカートが利用されていたならば、その植物そのものがエチオピアから伝わっていたと考えた方がよさそうだ。現在のイエメンにおいて、カートの葉は摘んだ後すぐに消費される「生鮮食品」である。乾燥させると効力が減ってしまうため、保存して消費されることは一般的でないからだ。現在よりも輸送に時間がかかった当時、エチオピアからわざわざ船で運んでいたのでは、途中で駄目になってしまっただろう。そう考えると、もし当時のイエメンでカートが用いられていたならば、その生産地は消費地のそばにあった…すなわちイエメンでの栽培が始まっていたと考えるのが妥当だ。
カートがイエメンに渡ったのがいつなのか、これもコーヒーノキと同様にはっきりしていない。イブン・ファドル・アッラー・ウマリーは、ラスール朝第4代スルタン、アル=ムアヤド・ダウード(1296-1322在位)の時代だと記録しているが、第6代スルタンがまとめた農業書には記載がなく、真偽ははっきりしない。1430年に「ハラーの開祖」と言われるエチオピアの聖人、シャイフ・イブラヒム・アブー・ザルバイがハラーから伝えたという説*1もしばしば挙げられる。ただいずれにせよ、16世紀初頭にイエメンでの使用の記録がある以上、15世紀中までにカートが伝わっていたことには間違いがなさそうだ。
一方カート同様、初期のカフワの材料だったとされるコーヒーの葉については、カートほどの生鮮性が要求される例は現在のエチオピアの利用法にもあまり見られないようだ。そもそもカフェインの性状から考えて、鮮度によって減少するとは考えられない。このためカートの場合とは異なり、コーヒーの葉から作られた「カフワ」の伝来と、コーヒーノキの伝来を結びつけて考えるのは難しい。コーヒーノキの伝来についても、次回あたりに改めて別の角度から考察したい。
以上をまとめると、
ザブハーニー以前のイエメンには
- 11世紀頃には、薬用としてのブン/ブンカム
- 15世紀初頭までに、嗜好品/食品としてのキシルとブン
- 15世紀初頭までに、カートまたはコーヒーの葉から作る飲み物「カフワ」
が存在していた。
と考えられる。これらはいずれも現在我々が飲む「コーヒー」とは似て非なる物だと言えるだろう。しかし、これらから現在のコーヒーが生まれたのであり、その誕生に深い関わりを持つのが、「アデンのムフティ、シェイク・ゲマルディン」ザブハーニーなのである。