はじまりの物語 (8)

#ターヒル朝前半 (1454-1478) の歴史。ほとんどPorter *1の抄訳。



15世紀後半から16世紀初頭にかけて、四代のスルタンによって続いたターヒル朝時代の前半 -- イスラム圏の史料にコーヒー利用の記録がはっきりと出てくるようになるのは、この時代である。ターヒル朝時代前半のイエメンは、国内の反抗的な諸部族の反乱や、ザイド派ハドラマウトなどからの侵攻など、さまざまな形の紛争がほとんど絶え間なく続いた時代であった。しかしザビードなどではラスール朝末期の混乱が収束し、イエメン国内に復興の兆しが見え始めたのもこの時代である。

  • 1454 ターヒル家の兄弟、アーミルとアリーがタイッズ、アデン、ザビードを制圧して、ターヒル朝を興す
    • 1454頃 ジャマールッディーン・ザブハーニー(=ゲマルディン)がアラビア半島でコーヒーの利用を是認(ユーカース『オール・アバウト・コーヒー』)
    • (1454/55 コーヒー利用がマッカ(メッカ)に伝わる?)(アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』 エスコリアル修道院版のみ)
  • 1454-60 初代スルタン、アーミルI世(アーミル・アル=マリク・アッ=ザーフィル・イブン・ターヒル。ターヒル家の四男)の治世
  • 1460-1478 二代スルタン、アリー(アリー・アル=マリク・アル=ムジャーヒド・イブン・ターヒル。ターヒル家の長男)の治世
    • 1460-5 ザイド派への侵攻
    • (1457)-1474 フバイシー族の反乱
      • 1462-4 アル=フバイシーが再び反乱、鎮圧されて和平を結ぶ
      • 1465-74 アル=フバイシーの弟、イドリースが蜂起するが鎮圧される
      • 1478 イドリースが再び蜂起するが敗れ、逃れたアデンで殺される。
    • 1464 ターヒル家兄弟間のいざこざ
      • 1464 アブドゥル=マリク・イブン・ターヒル(ターヒル家の次男)がザビードの代官になるが、アリーにより解任される(楽器演奏を認めたため)
      • 1465 他の兄弟と不仲になったアリーが出奔
    • 1468-70 ティハーマ地方の諸部族の反乱。バニ=ハフィース族との大規模な戦争で勝利するが多くの兵を失う。
    • (1470 ザブハーニーが死亡)
    • 1474 アリーが病気となり、二人の甥が代理に
      • スルタン代理:ダウード・イブン・ターヒル(ターヒル家の三男)の息子、アブドゥル=ワッハーブ(後の三代スルタン)
      • ザビード総代:ユースフ・イブン・アーミル(ターヒル家の四男で初代スルタン、アーミルI世の息子の一人)
    • 1477 マッカ(メッカ)の領主、シャリーフ・ムハンマド・イブン・バラカートがジーザーンに侵攻。ジーザーン領主の息子がザビードに保護される。
    • 1478 アリーが病死。アブドゥル=ワッハーブが三代スルタンに任命される。

*1:Porter, Venetia (1992) The history and monuments of the Tahirid dynasty of the Yemen 858-923/1454-1517., Durham theses, Durham University. Available at Durham E-Theses Online: http://etheses.dur.ac.uk/1558/

アーミルI世とアリーの時代(1454-1478)

初代スルタン、アーミルI世と二代スルタン、アリーの時代は、実質的にはターヒル家の五人兄弟の中で、傑出していた四男(アーミルI世)と、長男(アリー)による合同統治体制であった。この体制はアリーがスルタンに即位した1460年以降も続き、1465年にアーミルI世がザイド派との戦いで命を落とすまで続いた。


ラスール朝の王位請求者たちとの戦いにおいて、ターヒル家は、元々ラスール朝の首都であったタイッズを拠点として戦い、1454年にアデンとザビードの、二つの主要都市を制圧したことで、下イエメン地域一帯を支配するに至った。ターヒル朝の成立後は、アーミルI世が初代スルタンになり、ラスール朝時代から続いてタイッズの要塞を首都として拠点にし、本人は各地の戦線を転々としていた。アデンは、ターヒル家にとって最も忠実で信頼できる家臣、イブン・スフヤーン*1が代官になって治め、ザビードは、1454年にアリーが入城して以降、彼が統治をつづけていたようだ。


アーミルI世とアリーの時代は、国内の反抗的な諸部族による反乱と、ハドラマウトザイド派などの国外勢力との紛争が続いた時代である。これらの戦いにおいて、二人のスルタンには役割分担が出来上がっており、国内の反乱鎮圧にはアリーが、国外勢力の侵攻に対してはアーミルI世が、それぞれ主に対応していた。元々ラスール朝との戦いでも活躍したのはアーミルI世の方であり、おそらく彼は戦に長けた、一族きっての武闘派だったようだ。これに対してアリーは、多数の奴隷たちなどの派閥が入り乱れるザビードを取り仕切り、隣接するティハーマ地方の反抗的な諸部族を、時には武力で鎮圧し、時には交渉で丸め込むなど、内政に長けた人物だったようだ。ターヒル朝の歴史をまとめたPorterの言葉を借りれば*2、彼らの治世を振り返ると、アーミルI世は対外侵略ばかり、アリーは内政ばかりに力を入れ過ぎで、どちらもバランスに欠けていたとの評である。

*1:アリー・イブン・スフヤーン

*2:Porter, Venetia (1992) The history and monuments of the Tahirid dynasty of the Yemen 858-923/1454-1517., Durham theses, Durham University. Available at Durham E-Theses Online: http://etheses.dur.ac.uk/1558/ , p.72

アーミルI世の治世(1454-60)

ターヒル朝成立直後のアーミルI世の治世で、主な紛争の一つは、ティハーマ地方の反抗的な部族であったマアジバー族と、クライシュ族による反乱である。彼らとターヒル家の関係は非常に複雑だが*1、マアジバー族は当初からターヒル朝に反抗的であった。クライシュ族は最初はターヒル家と仲が良く、一緒にマアジバー族に攻撃したりしていたものの、間もなく反抗的な態度を示すようになっていた。彼らは、1456年頃からたびたび反乱を起こしたが、そのたびに隣接するザビードにいたアリーに鎮圧された。鎮圧のたびに、部族の者の何人かが殺され、馬や金が奪われて、彼らの財源であったナツメヤシの木が、しばしば懲らしめのために切り倒された。これによって彼らの財産は失われ、勢いを失った両部族は1460年頃には鎮静化していった。


この時代のもう一つの大きな紛争は、ハドラマウトからアデンへの侵攻である。ハドラマウトラスール朝の2代スルタン、ムザッファルの時代に征服されていたが、イスラム以前からこの地域に暮らしていたキンダ族の族長、アブー・ドゥジャナーが1435年に反乱を起こし、主要な港町であったシフルを占拠していた。

ターヒル朝成立の翌1455年、彼はさらにアデンにも食指を伸ばそうとした。アデン周辺の山岳部族であるヤーフィー族の族長の一人、ムバーラク・タービティーに共謀を持ちかけ、数隻の船とともにアデン沖に停泊し、ターヒル朝のスルタン、アーミルI世が不在の隙をついて攻撃をしかけた。

しかしアデンの代官、イブン・スフヤーンが街壁の守りを固め、素早くアーミルI世に使いを送って呼び寄せた。さらに荒天によってアブー・ドゥジャナーらの船は遭難し、アデンに近い海岸に打ち上げられて、彼らはアーミルI世によって捕えられた。

アブー・ドゥジャナーはアデンに出征する前に、自分の母、ビント・マアシルにシフルのことを任せていた。彼女は、彼が捕まったという知らせを聞くと自らアデンに赴き、降伏するのと引き換えに息子の命を嘆願した -- ただし結局、彼はシフルに戻る途中で死んでしまい、生きて故郷に戻ることはなかったのだが*2。こうしてハドラマウトは鎮圧され、1459年には再びターヒル朝の代官が派遣されて、その支配下になった。


これ以外にもターヒル朝の紛争は絶えることなく、1457-9年にはザイド派との衝突や、イッブ地方のズー・ジーブラーにいたフバイシー族の反乱が起きている。

*1:ラスール朝末期のザビードで「偽スルタン」アフダルが王位請求者の名乗りを上げた時、マアジバー族とクライシュ族は、彼から資金や武器を贈られて勢力を付けていた。その後、マアジバー族とクライシュ族は仲違いし、クライシュ族が有利に立った。さらにその後、別のラスール家王位請求者のマスウードが、マアジバー族の力を借りてクライシュ族を鎮圧していた。そしてマスウードらラスール朝の王位請求者たちと戦ったターヒル家のアリーが、1454年にザビードに入るときにはクライシュ族がターヒル家の側についていた。

*2:一説には毒殺されたとも伝えられている

アリーの治世:前半(1460-5)

1460年、アーミルI世の承認を受けて、アリーが二代スルタンとなった。とは言え、実質的には兄弟統治体制に変化があったわけではなく、その治世の最初の5年間(アーミルI世が戦死するまで)は、ほとんど先代から連続した時代と考えてよさそうだ。アーミルI世が退位した理由はよく判らないが、ティハーマ地方の反乱鎮圧の目処がついてアリーに余裕が生じた一方、ザイド派との対立が激化の兆しを見せており、アーミルI世がそちらに集中したかったためかもしれない。

アリーが即位したのと同じ1460年には、ザイド派イマーム(最高指導者)マンスール・ナースィルとの間で激しい衝突が起きた。この戦いで、ターヒル家の五人兄弟の末っ子、ムハンマド・イブン・ターヒルが殺される。その後、さらに激しさを増す戦いの途中でマンスール・ナースィルは死に、ターヒル家はサヌアをその支配下に治めるが、その後の戦いで初代スルタン、アーミルは命を落とすことになる。

ザイド派との戦い〜アーミルI世の死

この辺りの勢力図は、なんというか、もう本当に嫌になるくらい、非常に複雑である。ザイド派シーア派)と、ラスール朝ターヒル朝スンナ派)は基本的に犬猿の仲で、要所要所では、結局この対立が舵を取ることになるのだが、ザイド派内での仲違いから、ターヒル家に助けを求めたり一時的に同盟したりして、でも一段落ついたらまた対立する…という繰り返しである。

イマーム候補者の対立

北イエメンでは、1436年にザイド派イマーム(最高指導者)の座を巡って、三人の後継者候補の間で争いが生じていた。最終的には、最有力候補だったマンスール・ナースィルが、他の二人を幽閉して決着した。イマームによって幽閉された二人の候補者のうちの一人、サラールッディーンは獄死し、残る一人、ムタッハーは逃げのびた。


ターヒル朝が成立した翌年の1455年、サーダを実質的に統治していたサラールッディーンの未亡人が揉め事を起こしたため、マンスール・ナースィルはそれを口実にサーダに向かい、彼女とその大臣を捕らえてサヌアに連行した。

しかしサヌアでは、ナースィルが不在の隙を見計らって、ターヒル家に唆されたムタッハーが反乱を起こした。サヌア近郊にいたハムダーン族もムタッハーに協力し、ターヒル家・ムタッハー・ハムダーン族の反ナースィル同盟によってサヌアを占拠しようとしたが、すぐに引き返してきたマンスール・ナースィルによって鎮圧された。

ターヒル家との争い

その後、ターヒル朝ザイド派の間で小競り合いが続き、1460年には大きな紛争に発展した。アーミルI世が戦場に向かい、マンスール・ナースィルとの間で講和が結ばれる手はずになっていた直前、ザイド派側が誤ってターヒル家の五人兄弟の末っ子、ムハンマド・イブン・ターヒルの陣を攻撃したことで戦いが始まり、アーミルI世の救援も間に合わず、この戦いで末弟を殺された。ターヒル側は一旦敗走したものの、翌1461年にはアーミルI世とアリーが弟の弔い合戦のために大軍を出し、マンスール・ナースィルの拠点であったザマールを包囲して陥落させた。マンスール・ナースィルは、より多くの自軍を駐留させていたサヌアに逃れた。ザマールの長老たちはターヒル家に従順な姿勢を見せたため、アーミルI世らは親族の一人を代官としてザマールを任せることにした。スルタン、アリーは自領に戻り、アーミルI世はハドラマウトでアブー・ドゥジャナーの兄弟が起こしていた海賊行為を鎮圧するためシフルに向かった。

マンスール・ナースィルの末路

同1461年、サヌアの軍勢と合流したマンスール・ナースィルは、アーミルI世らがいない隙をついてザマールを陥落させ、ターヒル朝の代官を追い出した。


アーミルI世はその報復のため、ムタッハーとハムダーン族との反ナースィル同盟を復活させ、サヌアとザマールの二手に分かれて攻撃を計画した。最初にムタッハーとハムダーン族が、サヌアと周辺地域を攻撃した。サヌアにはザイド派の代官、ヤヒャー・カッラーズと、マンスール・ナースィルの息子、ムハンマド・イブン・ナースィルがいて、この戦いでは同盟側にも大きな被害が出た。少し遅れてアーミルI世がマンスール・ナースィルのいるザマールを攻撃し、主戦力をサヌアに送っていたマンスール・ナースィルはザマールから逃げ出し、残った家臣や護衛らとともにサヌアへと向かった。


だがサヌアへと向かう途中、マンスール・ナースィルはほんの気まぐれで道をそれ、ウルクブという地域に立ち寄った。そこの住民らはザイド派寄りの者たちで、彼ら一行を大いに歓待した。すっかり気を許したマンスール・ナースィルであったが、持参した食料が少なくなり護衛の人数が減ると、住民たちの態度は一変し、マンスール・ナースィルとその家来らは彼らから身ぐるみを剥がれ、さまざまな侮辱を受けた。ウルクブの住人の数名が、ターヒル家のアーミルI世のところに行って事情を説明すると、彼は飛び上がって喜び、彼らにたくさんの褒美を与え、さらに憎きマンスール・ナースィルを自分の前に連れてくるよう、手枷と命令書を持って戻らせた。


しかし彼らがウルクブに戻る頃には、すでにこの事態はザイド派の行者たちにも伝わっていた。ウルクブの住民らに対して、彼らは「マンスール・ナースィルを、ターヒル家(=スンナ派)に引き渡して処罰させるのは、ザイド派の法そのものを破壊する行為である。同じザイド派であるムタッハーを、彼の次のイマームとし、マンスール・ナースィルの処分は彼に任せるべきだ」と主張した。ウルクブの族長はそれに納得してムタッハーに手紙を書き、ムタッハーがターヒル朝には無断でこれを了承したため、マンスール・ナースィルはサヌアの外に陣を張っていたムタッハーの元に連行された。彼はその後、カウカバーン山の要塞に幽閉され、さらにその後、身柄を移されたアルースという要塞で1464年に亡くなっている。

サヌア陥落

マンスール・ナースィルがムタッハーに捕らえられた知らせは、サヌアの街内にも届いた。マンスール・ナースィルの息子、ムハンマド・イブン・ナースィルと、ザイド派の代官ヤヒャー・カッラーズは、街からムタッハーの陣に攻め出て彼を奪回しようとしたものの、その動きをいち早く察したムタッハーが、彼をカウカバーン山に連行していたため、果たせなかった。

サヌアの住民から見ると、この戦いは元々、ナースィル派とムタッハー派の、イマームの座を巡る争いの延長戦みたいなものである。このため、ムタッハーを新イマームにすべきという人々が徐々に増えていった。例えば、マンスール・ナースィルに夫サラールッディーンを殺されていた彼の未亡人はサヌアの中にある神殿に立てこもって、神殿の屋根の上から毎日、召使いらとともにムタッハーを応援して叫びつづけた。これが原因で小競り合いとなり、サラールッディーンの未亡人が篭城した神殿の扉は壊され、未亡人とその娘は、ナースィル派によってどこかに連れ去られたという。


サヌアでは、ナースィル派がまだ辛うじて支配を保っていたものの、日々勢力を増すムタッハー派との小競り合いが繰り返され、事態が好転しない前者は劣勢に追い込まれていった。そしてナースィル派の筆頭、イブン・ナースィルとヤヒャー・カッラーズは自分たちの生き残りをかけて、あろうことか「ターヒル家との」和平交渉を企てた*1。しかし蓋を開けてみれば、和平どころかターヒル朝への降伏に等しく、交渉役に当たったヤヒャー・カッラーズが自己保身に走ったせいだと、サヌア住民たちから大いに恨みを買った。

こうして1461年、サヌアにはターヒル朝の代官として、アーミルI世やアリーの甥にあたるアブドゥル=ワッハーブ・イブン・ダウード -- 後の三代スルタン --が着任し、ターヒル朝による支配を受けることになったのである。ただし、このときの交渉の甲斐あって、イブン・ナースィルはサヌアに居住することを認められた。これが後に、ザイド派にとっての復権の鍵、ターヒル朝にとっての災いの種になる。

ザイド派サヌア奪還

マンスール・ナースィルの死後、ムタッハーがザイド派イマームを名乗ったが、必ずしもザイド派全ての人々に受け入れられたわけではなかった。ターヒル朝に占領されたサヌアでは、交渉役を勤めたヤヒャー・カッラーズが、ターヒル朝によってサヌアの次官に任命されると、人々は「カッラーズに騙された」とイブン・ナースィルに同情し、彼を擁立しようという動きも現れはじめた。1464年、この動きがアーミルI世の耳にも届き、サヌアに新しく赴任したもう一人の次官、ムハンマド・イーサー・バダーニーに手紙を送り、彼の住居をサヌアの南に移し、不穏な動きから遠ざけるように依頼した。バダーニーはこの知らせをイブン・ナースィルに伝え、(よせばいいのに)事実上の幽閉であることを教えた。


この処遇を恐れたイブン・ナースィルは、亡き父の次官を勤めていたムハンマド・イブン・イーサー・シャーリブに手紙を送り、逃亡の手助けをしてくれるよう依頼した。イブン・イーサー・シャーリブはこれに応じ、バダーニーらが兵のほとんどを連れて徴税に出かけた隙をついて、「白馬の王子様」さながらに、囚われのイブン・ナースィルの元にやってきて、彼を自分の領地であるズー・マルマルに連れ去ろうとしたのである。

だが、サヌアの住民たちがそうはさせなかった…と言っても彼らを妨害したのではない。逆に彼らにサヌアを奪還してくれるよう懇願したのである。住民たちは彼らとともに、まず「裏切り者」のカッラーズの住居を襲撃し、次に城を襲って中に残っていた少数の兵を追い出して、サヌアは完全に彼らザイド派の手に戻ったのである。

アーミルI世のサヌア包囲

同1464年、恭順していたはずのイブン・ナースィルが裏切り、サヌアの人々が造反したという知らせを聞くと、アーミルI世は怒り狂い、すぐさま大軍を率いて向かった。サヌアを完全に包囲すると、多数の投石機が組み立てられ、サヌアの建物や街壁は砲撃によって破壊された。それでもアーミルI世の怒りは収まらず、サヌア近隣の畑も破壊し尽くされ、井戸を埋め立て川をせき止めた -- 当時砂漠に暮らす人々にとって、このような水源の破壊は一線を越える残虐行為だと考えられていたようだ。


アーミルI世によるサヌアへの攻撃は、イスラーム教で争いが禁じられた*2第11月(ズー・アル=カアダ)に入ってからも続き、彼らが野営を解いたのは13日*3になってからであった。アーミルI世は、次の第1月(ムハッラム:争いは禁じられる)に戻ってくると言い残して、自領であるジュバンに引き上げていった。


ターヒル朝の攻撃により大きな被害を受けたサヌアだが、住民たちの反抗の意志はなお固く、イブン・ナースィルに多額の資金を提供して支援した。その資金を元に再び近隣から兵を集め、街壁が修復された。そして第1月、約束どおり戻ってきたアーミルI世は、サヌアの抗戦姿勢を目の当たりにすると、一層容赦のない攻撃をしかけた。水の供給を完全に断ち、砦や畑を破壊した。さらにジュバンから1000頭の牛を連れてきて、残った井戸や川を完全に使い物にならなくなるまで破壊しつくした。その非道な弾圧は、ターヒル朝側の兵たちも怯みためらうものであったが、アーミルI世の責任の下、徹底して行われたという。水源を断ったことを確認すると、アーミルI世は再びジュバンに戻っていった。


この弾圧の目的は、サヌアの住民を皆殺しにすることではなく、住民たちに根を上げさせ再びターヒル朝への恭順を誓わせることである。アーミルI世はジュバンでサヌアからの連絡を待ちつづけたが、サヌアの住民たちはずっと耐えつづけた。そして1465年の第11月(1465年7-8月)になって待望の手紙が届いた…それはサヌアの中にいるターヒル朝支持者を名乗る者から、ターヒル朝に忠誠を誓い、サヌアを統治してほしいと懇願する内容のものだった。そして手紙を読むとアーミルI世は喜び勇んで、すぐにサヌアへと直行した……もしこのとき、彼とアリーが一緒にいて相談していたならば、未来は変わっていただろう。だがこのときアリーはアデンにいたため、彼はアリーに使いを送る暇すら惜しんで、自分の家来を少数引き連れただけで、道中で傭兵や諸部族を金で雇いながらサヌアに向かったのである。

その頃、アリーは…

アーミルI世のサヌアへの弾圧は明らかに「やりすぎ」で、失策であった。確かにサヌアの人々は元々ザイド派であったが、ひとたび恭順を誓わせた以上は「自国の民」である。殲滅させるのではなく交渉し、反乱のための武力や経済力を上手く削り、支配することが重要になる。アーミルI世はラスール朝ハドラマウト北イエメンザイド派など「外部勢力との戦い」には長けていたが、ティハーマ地方諸部族やザビードの奴隷たちなど国内の反乱分子の扱いでは明らかに、兄であるスルタン、アリーの方が長けていた。

しかしサヌア包囲戦をアリーではなくアーミルI世が率いたのには事情があった。この1464年頃、ターヒル朝の成立時から二人三脚で統治してきた兄弟の間に不和が生じていたのである。


アリーは、アーミルI世からスルタン位を譲られる1460年以前はザビードの実質的な統治者であった。その後スルタンになったため、自身はタイッズや自領のジュバンやミクラーナでの政務に追われ、ザビードはターヒル一族の次男で、弟であるアブドゥル=マリク・イブン・ターヒルに任せていた。しかし、1464年アリーは突然、彼を解任した…解任の理由は、アブドゥル=マリクがザビードで、人々がラスール朝時代の楽器を演奏することを認めたためである。アリーは非常に高潔で敬虔、かつ厳格なイスラム教義の信奉者であった。ラスール朝崩壊後に風紀が乱れきり、享楽に浸っていたザビードの人々を厳格に律して、その秩序を取り戻した彼には、規制を緩めるアブドゥル=マリクの行いがどうしても許せなかったようだ。


しかしアブドゥル=マリクはこの解任に不満を抱き、アーミルI世に自らの処遇についての不平を漏らしたのである。アリーがいくら現スルタンで長男であるとは言っても、兄弟の中でもっとも実力が傑出していたのはアーミルI世であり、元々彼がスルタンになれたのもアーミルI世の承認があったからである。このため、アリーは一族の中で孤立感を募らせ、国を棄ててマッカに旅に出ようと企てたらしい…実際には途中で引き返したものの、行方不明となったアリーを捜索するための兵が出され、後にこの騒ぎを聞きつけた諸部族が反乱を企てるきっかけになった。結局、アリーはザビードの学者たちに請われて思いとどまり、アデンに向かってそこでアーミルI世と仲直りした。しかし、この短い不和の期間のため、アーミルI世がサヌア包囲戦を指揮することになったのである。

アーミルI世の死

アーミルI世のサヌアへの進軍は明らかに拙速であった --ひょっとしたら兄アリーのように上手く反乱鎮圧が出来ない、民衆に支持されていないという焦りが、アーミルI世の中にあったのかもしれない。恭順の手紙を出した「ターヒル朝支持者」は、実はサヌアではごく少数の「信仰心が足りない不届き者」たちにすぎず、何の戦力補強にもならなかった。またアーミルI世の兵のほとんどは、途中でかき集められた傭兵や諸部族の人々であったため士気が低く、さらにサヌア到着直後、荷解きする前の隙を突かれて、ほとんどの物資を失ったため、彼らのほとんどが逃げ出してしまった。アーミルI世と彼の直属の兵たちだけは誰独り逃げ出すことなく最期まで勇猛果敢に戦ったが、その圧倒的な戦力差のために敗北し、アーミルI世は戦死を遂げた。


アーミルI世の死の知らせを受け、各地の反乱分子たちが再び活動する兆しを見せたため、アリーはその対処に追われることになる。このためサヌアの奪還は後回しとなった。サヌアではイブン・ナースィルが正式にザイド派イマームとなり、ザイド派サヌアとザマールを奪還して、彼の治世は約40年間続いた。

*1:この時点で、ムタッハーとターヒル家との同盟が解消されていたかどうかは明らかではないが、ムタッハーが独断でマンスール・ナースィルの処遇を決めたことと、彼が「ザイド派の新イマーム」になっていく関係から、ターヒル家との仲が悪くなっていたことは確かだろう。

*2:第1月ムハッラム、第7月ラジャブ、第9月ラマダーン、第11月ズー・アル=カアダの4つの月はイスラム教において聖なる月であり、争いは禁じられている。ただしアーミルI世がラスール朝のムアヤドのいるアデンを陥落させたのはラジャブであり、アーミルI世自体は軍事上必要と考えたら、必ずしもこの教えに従っていなかったようである。ターヒル朝年代記ではおそらく明言を避けてあり、アデンを陥落させたときの出来事は単に「アーミルが壁を乗り越えてアデンに入城した」とだけ書かれているようだ。

*3:1464年7月27日

アリーの治世:後半(1465-78)

アーミルI世の死後、ターヒル朝イエメンでは反乱分子の蜂起が相次いだ。1465年、イッブ近郊のズー・ジブラーでは、前年に和平を結んでいたフバイシー族が再び反乱を起こし、その後スルタンに鎮圧された。またティハーマ地方の諸部族も不穏な動きを見せ、ティハーマ地方に隣接するザビードでは1467年頃から不審火が相次いでいた。ティハーマ地方の反抗的な部族の代表であるクライシュ族やマアジバー族は、それまでの鎮圧によって勢力を削がれていたが、1468年にはティハーマ地方北部のアル=カビユーン族、1469年にはルバート族、そしてバニ=ハフィース族など、それまでターヒル朝に従っていた諸部族が相次いで反乱を起こした。中でもバニ=ハフィース族との戦いは激しく、1470年の戦いで鎮圧することに成功したものの、この戦いでターヒル朝設立時からの忠臣で、スルタンから最も信頼されていたイブン・スフヤーンが命を落とした。この時期、アリーは有能な弟に続いて最も信頼できる忠臣を失い、またそれまで信頼してきた部族の裏切りに直面することになったのである。彼には子がおらず、次第に親族である兄弟の息子、甥達を頼るようになっていった。


1474年、アリーは病気で臥せり、スルタンとしての政務に支障を来すようになった。そのため彼の甥達の中でも有能だった二人がアリーに指名されて、彼の代行になった。一人はターヒル家の三男、ダウード・イブン・ターヒルの息子、アブドゥル=ワッハーブであり、もう一人はターヒル家の四男で先代スルタン、アーミルI世の息子の一人、ユースフ・イブン・アーミルである。アブドゥル=ワッハーブがアリーの下でスルタン代理として勤め、ユースフはザビード総代になった。

ユースフは非常に民衆に人気があり、ザビード入りした彼を歓迎する催しは、スルタン、アリーのときよりも盛大に行われたそうだ。ユースフは学問に造詣が深く、優れた言語学者であり医学者であったという。ただし、イスラム教徒としてはアリーほど敬虔だったというわけではなかったらしい。

マッカのジーザーン侵攻

この頃、イエメンに隣接するジーザーンとマッカでも一つの動きがあった。マッカの長官シャリーフ・ムハンマド・イブン・バラカートと、ジーザーンの長官、アフマド・イブン・ディーブは以前からずっと仲が悪い事で知られていたが、1477年に、イブン・バラカートがジーザーンに大軍を率いて侵攻したのである。この侵攻の結果、ジーザーンの街は破壊・略奪され、イブン・ディーブの息子の一人がザビードのユースフの下に逃れ、そこで匿われた。この出来事から、ユースフはマッカやジーザーンなど外部勢力との関わりを持つようになる。

スルタン、アリーの死

1478年、二代スルタン、アリーが病没した。死の間際、彼は病苦のせいで一層頑なになっており、唯一心を許していたのがスルタン代行、アブドゥル=ワッハーブだったようだ。臨終の床でアリーは彼を後継者として正式にスルタンに任命し、アリーの葬儀は彼によって執り行われた。弔辞ではアリーがザビードに多くの施しをしたことや、その敬虔さが讃えられ、彼の治世の一端を伺い知ることができる。アリーの治世は、諸部族の鎮圧に明け暮れる傍ら、ザビードをはじめとする各都市に多くの建物が建造され、ラスール朝時代の遺跡が修復された。ティハーマ地方ではヤシなどの農業が奨励され、ラスール朝末期にイエメン各地が被った(経済的)損害からの復興が行われた時代でもあった。


アブドゥル=ワッハーブがアリーから三代スルタンに任じられた知らせを聞いて、ショックを受けたのがユースフである。彼は、自らが王位請求することこそなかったものの、スルタン位については親族で話し合って決めるべきだと主張し、アブドゥル=ワッハーブに叛旗を翻すことになるのだが、この顛末については後日にしたい。

ザビードとアデン

ここでラスール朝末期からターヒル朝前半において、ザビードとアデンがそれぞれどのような状況下にあったのかを整理してみたい。

ザビード

ラスール朝時代に学術・宗教の街として大いに発展したザビードであったが、1442年のラスール朝スルタン、アル=アシュラフ・イスマーイールIII世の死以降、反抗的な奴隷たちの勢力が台頭して、大いに混乱した。建物は破壊され、商店は略奪されてほとんど無政府状態となっていた。ザビードの住民たちは、主義思想の異なる多くのグループの寄せ集めに近い状態になっていたが、おそらく旧支配層 -- ラスール朝時代の支配者層であった役人たちや、彼らとの結びつきが深かったイスラム学者(ウラマー)たち -- の多くは逃げ出し、残った者たちも少数勢力になっていたと考えられる。この状況が1454年頃まで続いた。


1454年、ターヒル家のアーミル、アリーの兄弟がアデンを制圧した。このとき、ラスール朝時代からアデンの代官を勤めていたジャヤーシュ・スンブリーがアデンから追放されてザビードに逃げ込んだ。しかし彼はターヒル家と内通しており、ザビードの内部で親ターヒル勢力を増やす内部工作を行った。これを受けて、ザビード内でも親ターヒル派が優勢になった頃、ターヒル家のアリーがザビードにやってくることになり、反ターヒル派の奴隷たちはザビードから逃げ出した。おそらくこれとほぼ同時期、アデンからザビードに逃れてきていたラスール朝の末裔の一人、マスウードもザビードを離れ、最終的にマッカへと逃亡している。そして、アリーがザビードの「総代」として統治するようになった。

1460年、アリーがスルタンになると、ザビードには彼に代わって代官が置かれた。しかしその当初、代官の権限はそこまで高くなく、重要な決定はアリーの承認を必要としていたようだ。1464年、アリーの弟の一人であるアブドゥル=マリクがザビードの代官になったとき、ラスール朝時代に人々が奏でていた楽器の演奏を承認したが、これを良く思わなかったアリーによって、彼は代官を解任されている。

楽器演奏の是非を巡るエピソードからも伺えるように、1454年から1474年にかけて、アリーがザビードを直接、間接的に治めていた時代、ザビードではかなり厳格にイスラムの戒律が守られていたと考えられる。アリーはまた、しばしばハディース預言者ムハンマドの言行)の講義に出席したことも記録されており、彼がラスール朝時代と同じような、ウラマーによる正統派イスラムの教えを重視していたことが判る。おそらくはその厳しい戒律で住民たちの享楽的な振る舞いを禁じ、ザビードの綱紀粛正にも利用したのであろう。またこのことは同時に、ウラマーに対して批判的なスーフィーたちの活動を制限することにつながった可能性もある。特に彼がラスール朝時代にも許されていた楽器演奏まで禁じていたことは、スーフィーたちが夜の勤行のときに歌を詠唱することとの関連を想起させる。


アリーによるザビードの統治体制が終わったのは、おそらく1474年、病気になったアリーの代わりとしてユースフがザビード総代になったときであると考えられる。彼はザビードの民衆に大変人気があり、言語学と医学に通じていたが、一方でアリーほど信心深くはなかったと評価されている。この評価から考えて、彼が民衆の支持を得た理由は、おそらく民衆から見て、アリーに比べて「話が分かる」人物であったためだろう。いくつかの民衆の娯楽は規制緩和され、あるいは黙認されたのかもしれない。また彼が医学に通じていたという点は、コーヒー利用を考える上で興味深いかもしれない。


上記をまとめると以下のようになる。

  • 1442年以前、ラスール朝時代のザビードは、多くの正統派のウラマーを擁した学術・宗教の中心だった
  • 1442年から1454年まで、ザビード無政府状態となり、奴隷たちなどがいくつものグループに分かれて混乱した
  • 1454年から1474年まで、ターヒル家のアリーによる綱紀粛正で再建され、再び正統派のウラマーが力を得た
  • 1474年、ユースフがザビード総代になって以降、宗教的厳格さを求める姿勢は、やや緩和された

アデン

ラスール朝の前半、アデンは交易都市として大いに栄えたが、1420年頃のアッ=ナースィル・アフマドの失政でほぼ完全に交易が停止する事態になり衰退した。それでも1435年頃には、ラスール朝の政策転換によって徐々に復興を遂げていった。ちょうどこの頃、ハドラマウトの主港であるシフルが、キンダ族によって侵略されたこともアデンの復権に影響していたかもしれない。


ラスール朝以前の時代から、アデンはキーシュ島の勢力などからたびたび侵攻を受けてきた歴史がある。このためアデンはラスール朝時代の潤沢な収益を元手に城壁で街を覆い、港の守りを固めてきた。その堅牢さは、ターヒル朝末期にポルトガルマムルーク朝の火器による攻撃を何度もはねのけたことからも伺い知ることができる。このためアデンは交易都市としてだけでなく、軍事的に見ても重要拠点になりえた。このことはラスール朝末期のアデンの動向、そして他ならぬアデンがラスール朝からターヒル朝への王権交代の場所になったこととも関連している。


アデンは1448年以降、ラスール朝の王位請求者の一人であったマスウードがその本拠地としていたようだ。この当時のアデンは、戦乱期の前に任命されていたジャヤーシュ・スンブリーが代官として実権を握っていた。1448年、ターヒル家との戦いに敗れたマスウードは、彼によってアデンで保護されていた。ところが1454年、マスウードはアデンを去り、その後すぐに、ザビードの奴隷たちに擁立されたラスール朝王位請求者ムアヤドがアデンに入った。このときの状況や、くわしい理由は不明である。ただアデン代官、ジャヤーシュ・スンブリーは、後にアデンから追放された振りをしてターヒル家のアリーがザビードに入る内部工作を手助けしたことからもわかるように、勝ち馬に乗って生き残ろうとするタイプの、したたかな人物だったことが伺える。マスウードがアデンを去ったすぐ後にムアヤドがアデンに入ったことで、ムアヤドはザビードとアデンというイエメンの二大都市を、少なくとも名目上は統治することになった。そう考えるとおそらく、ジャヤーシュ・スンブリーは当初はマスウードを支持していたが、彼とザビードのムアヤドとの戦いの途中でムアヤドの方を優勢と見て、マスウードをアデンから追い出し、乗り換えたのではないかとも思われる。


この1448年頃から1454年にかけて、アデンには「ラスール朝スルタン(を名乗る者)」が暮らしており、名目上「ラスール朝の首都」的な意味を持っていたことが予想される。特にムアヤドは、アデンにいた時間は短かったものの、そこで自分こそが正統なラスール朝の後継者であることをアピールしていたという記録がある (Porter, p.29)。マスウードが同様のアピールをしていたかどうかについては記録が残っていないようだが、彼がアデンにいた期間は長かったため、その可能性は十分考えられるだろう。


しかし1454年、ターヒル朝のアリー、アーミルの兄弟がアデンに入って制圧し、ムアヤドを蟄居させたことで、ラスール朝の王位請求者の全員が表舞台から姿を消して、ターヒル朝が成立した。これと同時にジャヤーシュ・スンブリーもアデンの代官の座を追われるが、彼はその後ターヒル家のために働き、彼らのザビード入りを手助けしたことで、その後はシフルの代官など各地を転々としながらも、ターヒル朝の要職の座にありついた。アリーがザビードの総代になった後は、ターヒル朝きっての忠臣、イブン・スフヤーンがアデンの代官となったが、初代スルタン、アーミルI世もタイッズやジュバンなどとともに、しばしばアデンに足を運びながら統治している。1457年にハドラマウトのアブー・ドゥジャーナーがアデン襲撃を企てたときも、最初はイブン・スフヤーンが防戦し、後からやってきたアーミルI世が彼を捕えている。ターヒル朝時代の前半は、このハドラマウトからの襲撃以外には、アデンについての重大な出来事はなかったようだ。おそらくラスール朝時代と同様な、交易・商業都市としての役割を徐々に取り戻していったのだと思われる。ただし、アリーの時代頃までのターヒル朝にとっての重要な収入源は、むしろティハーマ地方での農産物や、諸部族から徴収する税収だったようだ。


アデンの流れを見ると以下のようになる。

  • 15世紀初頭まで、ラスール朝の交易の中心として繁栄を遂げる。同時に強固な街壁で守りが固められる。
  • 1420-30年頃、アッ=ナースィル・アフマドの失政で衰退する
  • 1435年頃、ラスール朝の政策転換で復興に向かう。同じ頃、ハドラマウトの主港シフルがキンダ族に侵略される。
  • 1448年から1454年、ラスール朝王位請求者マスウードがアデンを本拠地とする
  • 1454年、マスウードがアデンを去り、別のラスール朝王位請求者ムアヤドがアデンに入り、自らの正統性をアピールする。
  • 1454年、アーミルI世とアリーがアデンに侵入、ラスール朝を滅ぼしターヒル朝が成立する。
  • 1457年、キンダ族がアデンを襲撃するが失敗。