コーヒーと胃分泌

帰山人さん経由、ライフハッカーの記事
http://kisanjin.blog73.fc2.com/blog-entry-215.html
http://www.lifehacker.jp/2010/03/100324darkercoffee_stomach.html

帰山人さんが指摘してるように、ライフハッカーの記事はミスリードにミスリードを重ねてて迷惑この上ない代物ですね。

ACSの春季会議っつーか、元ネタはSomozaがこないだ出した論文ですので、*読める*方はそちらをどうぞ。(私はまだ全文を拾ってきてないので、週明けに拾って読む予定)
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20235536


まずライフハッカーの記事では、Somozaが「コーヒーは胃酸分泌を増やすという事実はない」と語ってるかのように書かれてますが…まず大前提としては、そうではなく、『コーヒーは胃酸分泌を増やします』。ただし、その効果は一時期言われていたほど大きなものではないことと、そのことが単独では胃炎や胃潰瘍などの胃疾患を起こすほどのものではない、ということがわかっている、ということです。

#このあたりは1999年に良い総説(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/10499460)が出てます。


で、この胃酸分泌を起こしている成分の正体が何なのか、ということですが、その全容がまだわかっていません…そして、それを明らかにするために研究してる研究者の一人がVeronica Somozaです(Thomas Hofmannと共同研究してます)。

まず、従来から言われていたように、カフェインには単独で胃分泌を亢進する作用があります。ただし、コーヒーによる胃分泌亢進はデカフェでも(割と十分に)見られるため、カフェイン以外にも活性を持つ成分があることが示唆されてました。Somozaらは以前の論文(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/18448837)で、クロロゲン酸にも胃酸分泌活性があることを見いだすと共に、逆に胃酸分泌を抑制するものとして、N-メチルピリジニウムを見いだしてます。

また、ごく最近では、ヒト胃癌由来の培養細胞、HGT1を用いて、コーヒーの胃酸分泌調節物質を同定するin vitroの実験系を確立してて(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20070100)、新たにアルカノイル-5-ヒドロキシトリプタミド(コーヒーのワックス/生豆表面にある脂質)にも胃酸分泌活性があることも見いだしてます(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20030342)。


で、もう一つの背景として、これは日本でも一部の人から言われていることなんだけど、同じコーヒーでも浅煎りの場合と深煎りの場合で比べると、「深煎りの方が『浅煎りよりは』胃に優しい」と言われてます…実際に、医学的なレベルでどうなのか、ということについては、まだきちんと検証した論文はなかったと記憶してますが。

ただまぁあくまで個人的な実感としては、確かにそんな感じはするし、同様な感じがSomozaらにもあるようで、以前の論文で"Stomach friendly coffee"と言うものを提唱(半ば宣伝?)してたこと何かから考えても、まるっきり荒唐無稽な話ではないんじゃないかな、と思ってます。


まぁともかく、「どうも深煎りの方が『浅煎りよりは』胃に優しいんじゃないか」ということが言われてるわけですが、では何故そうなのか、ということはわかってなかったのです。で、日本ではこの辺りが、いろんなトンデモ説がはびこる一つの要因になってます。いちばん良く見かけられる説明は「深煎りの方がカフェインが少ないから」というもの。これはまぁ、カフェインの薬理作用的には正しいのだけど、実際のところ(石脇さんも『コーヒーこつの科学』で指摘してるように)カフェインの量は浅煎りと深煎りではほとんど変わりません。違いがあるとしても、せいぜい数%程度の差でしかなく、とても薬理作用に違いが出るレベルではない。カフェイン以外の説明だと、「コーヒーに含まれてる繊維が『胃に刺さって』胃を荒らす。深煎りにすると、この繊維が焼けて減るからだ」なんて、(言っちゃ悪いけど、噴飯物レベルの)トンデモな「学説」も出回ってたりします。


で、今回のSomozaらの報告というのは、この「深煎りの方が、浅煎りよりも胃に優しいかも」という仮説を、説明するためのメカニズムのお話になるわけです…つまり、深煎りになるとN-メチルピリジニウムが増える(トリゴネリン由来が多いはず)ので、それによって胃酸の分泌が抑えられるため、「浅煎りよりも、相対的に胃に優しい」のではないか、と。そういう仮説。

ただ(まぁ多分、論文中でDiscussionしてると思うけど)、焙煎で変わるのはN-メチルピリジニウムだけでなく、胃分泌を亢進するクロロゲン酸類の量も減るので、本当にN-メチルピリジニウムに話を帰結させていいのか、と言われると良くわかりません。つってもまぁ、クロロゲン酸類は焙煎で、クロロゲン酸ラクトン類とか、ビニルカテコール重合体とかいろんなものに変わるし、それらの「クロロゲン酸に由来する成分群」にも胃酸分泌への作用があることは十分考えられるから、その辺りの影響はひょっとしたらプラマイゼロに無視できるような話なのかもしれませんが。


まぁ何にせよ、成分レベルで言うと、Somozaの仕事はかなり興味深く、またコーヒーがヒトの体に与える影響に一歩迫った感があるものだと言えます。ただ「深煎りが浅煎りよりも胃に優しい」ということが、本当にどこまで正しいと言えるのかについては、in vitroの実験系だけでは不十分です。Somozaらの貢献でその活性成分の候補が見つかったことで、二重盲検定で確認することも可能になったわけですので、次は当然、そうした研究が行われることになるでしょう。


あとまぁ、胃に対する作用としては、胃分泌だけでなくて、下部食道括約筋圧(平たく言うと、食道と胃の境目の締り具合)の低下との関連も指摘されてて、これがいわゆる「胸焼け」(胃食道逆流)との関連から注目されてたりします。ただ、この現象についても、それほど強い作用ではなく、活性成分もわかってないし、そもそもコーヒー単独では起きない(食後にのみ見られる)など、一般の人にとってはあまり気にするほどのレベルのお話ではない、ということで。