はじまりの物語 (10)

#少し回り道して、「シェーク・オマール」ことシャイフ・ウマルのコーヒー発見伝説について検証。


「コーヒーの起源」は、はっきりした証拠が残っておらず、いくつもの仮説が存在している。中にはかなり怪しげな、古代ギリシャや聖書に起源を求めるようなものから、いかにもそうした可能性がありそうなものまで、さまざまだ。

これらの仮説については、山内秀文「辻調おいしいネット / カフェ・マニアックス」にわかりやすく分類されてまとまっているので、参照されたい。


ここで「三大伝説」として紹介されている三つの説、すなわち (III-a)山羊飼いカルディの伝説、(III-b)シェーク・オマールの伝説、(III-c)ゲマルディン(ザブハーニー)の伝説、は、いずれも多くの文献などで引用され、一般向けにもしばしば紹介されている有名な伝説である。

この三大伝説のうち、(III-a)山羊飼いカルディの伝説は、ファウスト・ナイロニの『コーヒー論:その特質と効用』(1671)に書かれた、オリエント地方の説話をベースに脚色されたものと考えられている。

一方、残る二つについて、ユーカースは『オール・アバウト・コーヒー』で、いずれもアブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』を出典として紹介している。しかし実際にド・サッシー『アラブ文選』を見る限り、(III-b)のシェーク・オマールの伝説は、その訳文中には出てこない*1

では、そのシェーク・オマールの最初の出典はどこなのか?


実は、ド・サッシー『アラブ文選』の脚注にその答えがある。脚注96において、他の文献からの非常に長い引用があるのだが、その中に確かに「シャイフ・ウマル(シェーク・オマール)」のエピソードが書かれている。この脚注の冒頭には、それが『トルコの地理』という文献中のアラビア半島の記録からの引用であると記されている。すなわちシャイフ・ウマルの伝説はアブドゥル=カーディルの文献に記載があるのではなく、ド・サッシーが別の文献から引用したものだ。ド・サッシーより前にアブドゥル=カーディルの文献を抄訳したアントワーヌ・ガランが、この伝説に言及していないのもこのためだろう。


ド・サッシーによれば、元になった文献はコンスタンティノープルで出版されたもので、Armainがフランス語訳したものがパリ王立図書館にあり、それを一部意訳したものを脚注に引用したそうだ。彼が参照した部分のArmainの文書は現存しないようだが、その原著は特定できる。

それは、17世紀のトルコの地理学者でありオスマン帝国で最大の博学者の一人として名高い、キャーティプ・チェレビー(またの名をハッジ・ハリーファ)が著した『世界の鏡』(Cihannüma / Gihan numa / jihan numa) だ。


この『世界の鏡』(もしくは『世界記述の書』とも呼ばれる)は、1648年に執筆開始された。一旦中断した後、1654年に再び執筆が再開され、1657年にチェレビーが死んだため未完に終わったものの、オスマン帝国最大の地理書と評される大書である。18世紀に入って、コンスタンティノープルで最初の活版印刷所がイブラヒム・ミュテフェッリカとサイード・エフェンディによって作られた際、1732年にトルコ語の小冊子として出版された。なお、この書には40もの図版が含まれており、その24番目の図版は日本の地図である。これがイスラーム世界で出版された書物の中で初めて書かれた日本図である。


この『世界の鏡』には、ド・サッシーが参照したArmainによるフランス語訳以外に、1812年にJoseph von Hammerが訳したドイツ語版と、1818年にMatthias Norbergが訳したラテン語版が存在する。ただしいずれも『世界の鏡』の一部分を訳したもので、ドイツ語版がルメリアとボスナ、ラテン語版がオリエントの地理の訳になっている。フランス語版も、現存するのはArmain訳の小アジアアナトリア)の部分を抜粋したものだけのようだ。そして、これらすべてが現在、オンライン上で読める(本当にいい時代だ)


ド・サッシーの脚注の最後にも、ラテン語版が1818年に"Gihan Numa, geographiia orientalis"という名前で出版されていることが書かれている。多少の相違はあるようだが、実際、ラテン語版"Gihan numa"にはド・サッシーがフランス語訳したものとほぼ同様の内容が記載されており*2、第二巻のp.217以降にみられる。現存する他の二つ、フランス語版抜粋とドイツ語版は、この部分をカバーしてはいないようだ。

*1:ド・サッシーの訳文中で"Omar"が出て来る箇所は二箇所ある。一つは"scheïkh Shéref-eddin Omar, fils de Faredh"(シャイフ・シェレフッディーン・ウマル・イブン・ファレズ)という、コーヒーとワインに関する詩をよんだ人物に関する部分(p.414)で、もう一つは"Ali Schadhéli, fils d'Omar"(アリー・シャーズィリー・イブン・オマル, p.419)である。後者は「オマルの息子、アリー」であってオマルではないことに注意。例えば臼井『コーヒーが廻り世界史が廻る』でも「アリー・イブン・オマル」と「オマル」の混同が見られる。

*2:ド・サッシーの脚注96の引用冒頭は、"Hezarfen Hosain Effendi"で始まっているが、この人名は他の版には見られない。ただし、ラテン語版の前書きに「イブラヒム・エフェンディ」の名前が見られる。これはコンスタンティノープルで出版したイブラヒム・ミュテフェッリカと、サイード・エフェンディのことを意味する。白岩によれば、スウェーデン人カールステンの記録に「イブラヒム・エフェンディ」名での記載が見られ、欧州では当初二人が混同されて、この名が用いられていたことがわかる。ド・サッシーが引用する際、さらにこれを17世紀末の別の"Effendi"と混同した可能性がある。

シャイフ・ウマルの伝説

ド・サッシーの脚注と、ラテン語版 Gihan numa に書かれた内容から読み取れる、シャイフ・ウマルの伝説は以下のような内容だ。


ヒジュラ暦656年(西暦1257/8年)、(アレクサンドリアの)シャイフ・アブル=ハサン・アッ=シャーズィリーが、スアキン経由でマッカ(メッカ)への巡礼に向かう途中、エメラルド山(Emeraudes / Zamred) とアジン山 (Adjin /Agin)から、それぞれ6日の距離があるアブラク山 (Ebrek / Abrak) に差し掛かったところで、弟子のシャイフ・ウマルにこう言った。「私はここで死ぬだろう。私が死んだら、ここにベールをかぶった人物が現れるので、彼の指示にすべて従うように」


まもなくアッ=シャーズィリーが死ぬと、遺言通りベールを被った人が現れた。彼が少し土を掘ると綺麗な水が湧き出した*1。ウマルは彼の指示に従い、その水で師の体を浄めて師の遺体を埋葬した。そのまま立ち去ろうとした彼をウマルは引き止め、「あなたが誰か教えてほしい」と願った。すると彼はベールを上げた。その顔は、アッ=シャーズィリーその人であった*2。彼は先ほどの水をボウルに汲んでウマルに渡し、「この水が動く方向に進むがよい。そして、この水が動きを止めたところで、大いなる運命がお前を待っている」と言って、忽然と姿を消した。


シャイフ・ウマルは旅を続けてスアキンに辿り着き、そこから船で紅海を渡ってマッカに行こうとした。そのとき彼は、ボウルの中の水が動くのを見た。そこで水の導きに従って、南へ向かう船に乗りこんだ。船がモカ港まで辿り着いたとき水の動きが止まったため、彼は船を降りて町外れに小屋を建てて暮らすことにした。彼がそこで井戸を掘ると、きれいで美味しい水が湧き出した。


ウマルが辿り着いたしばらく後、モカの町を疫病が襲った。ウマルは自宅の小屋を療養所として彼らの治療にあたり、多くの人々を救った。モカの族長には一人の美しい娘がいたが、彼女も病気に罹って療養所にやってきた。彼女の病状は重く、その治療には他の患者より数日長くかかったが、無事命を取り留めた。しかし彼女があまりに美しく、またウマルの名声も広まっていたため、町の人々はこの「二人の男女が同じ屋根の下で過ごした数日間」を勘ぐり、あらぬ噂を立てた。それが族長の耳にも届くと、その不名誉な噂に怒った族長は、ウマルとその弟子達をモカの町からウサブ山へと追放した。

ウサブ山は食べられるものがほとんどない荒野で、コーヒーノキが生えているだけだった。そこでウマルらはそれを食べるしかなかった。やがて彼らはその実をスープにして食べるようになった。


何年か経ったモカの町で、今度は疥癬(かいせん)が流行して人々が苦しんだ。このときモカで暮らしていたウマルの旧友の一人が、たまたまウサブ山のウマルの元を訪ねて、そこで彼らの飲んでいたコーヒーのスープを飲んだところ、その疥癬が治った。町に戻った彼は、疥癬の治った理由を人々に聞かれて「ウマルから貰った水を飲んだ」と答えた。これがモカの人々の間で噂になり、ウマルを追放した族長の耳にも届いた。族長はウマルに許しを乞い、彼をモカに呼び戻し、彼のための安息所*3を建てた。


やがて彼は族長の娘と結婚し、その後スアキンに移住してそこに新しく安息所を建てた。彼の子孫がウマル家の一族となった。


ド・サッシーの脚注でもラテン語版でも、「エメラルド山」「アブラク山」「アジン山」と言った地名には何の注釈もなく、具体的にどこを指すかはよく判らない。しかし現在のエジプト、スーダン南スーダンにそれぞれ同名の山があり、それぞれの位置関係*4と、マッカへ渡る予定であったスーダンの港、スアキンとの位置関係などと合わせても、多少のずれはあるものの、これらのアフリカ大陸側の山を指すものと考えてよさそうだ。

*1:砂漠地帯で生活する人々にとって、もっとも典型的な「奇跡」の実践の一つである。

*2:復活の奇跡を連想させるが、アッラーが彼の師の顔を借りて現れたのだと解釈されることが多い。

*3:修道僧が寝泊まりできる、小さな修道施設

*4:「アブラク」という地名はイラクの山中に、「アジン」という地名はアナトリアの山中にも見られる。しかし位置関係から考えるとこれらの可能性は低いと思われる。

ユーカースとの比較

シャイフ・ウマルのコーヒー発見伝説を広く認知したのは、何と言ってもユーカース『オールアバウトコーヒー』であろう。しかし、そこで紹介されている内容には、上記のものと比べていくつかの相違が見られる。

まずユーカースは「シェーク・オマール」の伝説を、アブドゥル=カーディルの文献にあるものとして紹介している。だがこれはド・サッシーが付記した脚注中の記述であり、さらにその原典はアブドゥル=カーディルではなく、キャーティプ・チェレビーの『世界の鏡』であることは既に述べた。

また彼は、ウマルの師アッ=シャーズィリーが死んだ場所を"Emerald mountain (Ousab)"とし、エメラルド山と、オマールが追放された山を同じウサブ"Ousab"としている。だがこのような記載は原典には見られないし、後の話も微妙に合わなくなる。地名を混同しているようだ。

そしてユーカース版には、ウサブ山に追放されたウマルが不遇を嘆いたところ、一羽の鳥が現れてコーヒーの実を見つけるのを手助けしたという話があるが、このような記述はどこにも見られない。おそらくこれも、他の伝承と混同しているのだと思われる。


誤解しないでほしいのだが、こうした間違いを指摘することでユーカースの偉業を貶めようという気は全くない。今と違って文献一つ入手するのも困難であった時代にあれだけのものを書き上げたことに対する敬意こそあれ、ケチを付けるつもりはない。ただ、アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』は、現実にあった談話や文献の調査を徹底して、きちんとした根拠があるものだけを扱い、このような俗説や伝説の類いは基本的に排除されている。アブドゥル=カーディルのそうした姿勢にも敬意を払い、彼の名誉のために「アブドゥル=カーディルは、シャイフ・ウマルのコーヒー発見説を取り上げなかった」ことを述べておきたい。

スーフィズムとシャーズィリーヤ教団

さて『世界の鏡』に書かれたシャイフ・ウマルの伝説であるが、そもそもこのウマルなる人物が実在したかどうか、これが結構怪しい。まず彼の名前は「ウマル/オマール Omar」としか伝わっておらず、父の名前や出身も不明である。


一方、彼の師として名前が出て来る「アッ=シャーズィリー」だが、こちらの方は実在したどころか、大物中の大物である。13世紀以降チュニジアやエジプトなどを中心に活動した、スーフィーの一大教団である「シャーズィリーヤ教団」を作った人物である。


スーフィーとは何か」については、以下の文章が判り易くまとまっているので参照されたい。


スーフィーとは、8世紀頃からイスラム教の信者の中に現れた神秘主義者を指す言葉であり、当初は粗末な毛布(スーフ)だけを身につけて禁欲的な生活を送る修行者たちであった。9世紀から10世紀にかけて官僚や学者(ウラマー)たちによってイスラム諸学が厳密に体系化された頃、その形式主義に反発し、内面性を重視する彼らは、一般の民衆に近い立場から権威者らに対して批判的な姿勢を採った。一方で、スーフィーの中には神秘体験を通じて神との合一を果たそうとするなどイスラームの教義から見て異端的な者が現れ、正統な学問の立場からは異端視されることが多かった。しかし、11世紀の偉大なイスラム学者であるガザーリースーフィズムを受け入れたことなどで、徐々に認められるようになっていった。

12-13世紀になると、スーフィーの教団化が各地で見られるようになる。スーフィーたちは修行を重ねることによって、自らの精神をより高い段階へと高め、最終的には自分の内面にある神の精神に触れることを求める。そのため高い修行の階梯にある者に弟子入りして、その下で修行することが広まった結果、多くの「弟子」を持つ師(指導者)を頂点とする、スーフィーの教団(タリーカ)が生まれた。こうした教団の指導者は、しばしば「聖者」として扱われ、「神の友人」を名乗り、その恩恵として「奇跡」を体験したことをアピールするようになった。このことは、本来のイスラムの教義とは必ずしも相容れない「聖者信仰」の拡大を招いたが、同時にスーフィズムの民衆への普及にもつながった。


アッ=シャーズィリーもまた、こうしたスーフィー教団の一つである、シャーズィリーヤ教団を創ったことで知られる「聖者」の一人である。

アッ=シャーズィリーは1156年、イベリア半島と近接するアフリカ大陸北端のセウタ(現在はスペインの飛地領)で生まれた。彼はフェスの町で勉学に励み、後年はアレクサンドリアに移り住んだ。彼は若い頃イラクへ行き、偉大なスーフィー、アル=ワシティに教えを乞うたが、「旅の出発地に戻れば、道を見つけることができるだろう」という啓示を受ける。そこで彼は生まれ故郷セウタに戻り、そのすぐそばのベニ・アロスで暮らしていた偉大なスーフィー、イブン・マシーシュ(http://en.wikipedia.org/wiki/%E2%80%98Abd_al-Salam_ibn_Mashish)に出会い、彼の弟子となった。

やがてアッ=シャーズィリーが指導者として独り立ちすると、多くの人が彼の元で学び、大勢の弟子や信徒ができた。特にハフス朝時代のチュニジア(首都チュニス)や、アイユーブ朝時代のエジプトで信徒数を増やした、この時代で最も成功をおさめたスーフィー教団の一つに成長した。その後、シャーズィリーヤ教団からは多くの分派が生まれ、その流れを汲む教団は現在にもつながっている。

シャーズィリー異聞

さて、シャーズィリーヤ教団の流れを組むスーフィー教団には、今でもアッ=シャーズィリーを聖者の一人として崇め、その言行録を「教え」の一つとして伝えているところがある。それを見ると、アッ=シャーズィリーが亡くなるときのエピソードとして、興味深い内容が書かれている。

エジプトに移住した後、アッ=シャーズィリーは毎年、マッカに巡礼することを欠かさなかった。彼の信奉者らを連れてエジプトからナイル川を遡り、そこから砂漠を通って紅海沿岸に抜けて、スアキンからジェッダへと船で渡り、そこからラクダで2日かけてマッカに行くのが、彼のいつもの決まったルートだった。


ある年、巡礼に行こうとするアッ=シャーズィリーに、ダマンフールに住む一人の少年が一緒に連れて行ってくれるように願った。彼の母親(寡婦だった)もそうしてくれるように願った。アッ=シャーズィリーは「フマイザラ(紅海沿岸に近い場所で、水場があった)までは保証しよう」と彼らに告げ、同行させることにした。


巡礼に向かうとき、彼は弟子達に向かって次のような話をしていた。

「エジプトに住むと決めたとき、私はアッラーに『私は異教徒の地に葬られ、私の肉は彼らの肉と混じってしまうのでしょうか』と聞いた。アッラーは答えられた。『いや、お前はアッラーが決して疎かにされない地に葬られるだろう』」

「また私がかつて病気になったとき『どこであなたに会えるでしょうか』と尋ねた。アッラーは答えられた。『フマイザラで会うだろう』と」

「私は、自分が死んで山の麓に埋められるのを見た。そこには井戸があり、塩を含んだ水が少しあるだけだったが、甘く沢山の水が湧き出るようになっていた」

「今年はもう私はマッカに行けないので、皆に代行巡礼をお願いしなければならない」


巡礼の一行がナイルを遡上して砂漠に入ったところで、少年とアッ=シャーズィリーは病に罹った。間もなく少年が亡くなったため、アッ=シャーズィリーの弟子達がその場に埋葬しようとした。しかしアッ=シャーズィリーはそこからフマイザラまで運ぶように弟子達に指示した。

そして一行はフマイザラに辿り着き、井戸の水で少年の体を浄めて埋葬した。その夜、アッ=シャーズィリーの病状は悪化したため、彼は弟子達を集めてこう告げた。「私がいつも唱えていた『海の連祷』をいつも唱えなさい。そして、貴方達の子ども達にも教えなさい。最も偉大な神の名がそこには含まれています」

そして弟子の一人、アブル=アッサーブ・アル=ムルシに呼びかけて、彼を後継者として自分の弟子達を託し、また他の弟子達にはアル=ムルシに従うように告げた。


彼はさらに、フマイザラの井戸の水を壷に汲んで持ってくるように弟子の一人に命じた。だが弟子は「ここの井戸の水はしょっぱくて苦いです。お飲みになるなら、私たちが持ってきた水の方が甘くて美味しいです」と答えた。「そういうことではない」と彼は言い、井戸の水を汲んでこさせると一口飲み、その水で口を漱いで壷に吐き出して「この水を井戸に入れなさい」と命じた。弟子が言われるままにそうすると、井戸から新鮮で甘い水がこんこんと湧き出した。そしてその夜、夜通し神の名を唱え続け、そのまま動かなくなった -- すべて彼の預言していた通りになったのである。


アッ=シャーズィリーは死ぬ前、アル=ムルシに次のように命じていた。「私が死んだら、ベールで顔を覆った人が馬に乗って現れる。その男に私の遺体を渡してから、遺体を洗って埋葬しなさい。その男は小道の急な坂を上って立ち去るが、お前は追いかけていくべきではない」と。

果たしてアッ=シャーズィリーが亡くなると、言った通りの男が現れ、アル=ムルシはその男に従って師を埋葬した。しかし彼は、その男の後を追って丘の上まで上っていき、その顔は覗き見た…それはアッ=シャーズィリーその人の顔だった。驚き畏れるアル=ムルシの前から、彼の姿は突然消えてしまい、そこでアル=ムルシはアッラーが師の姿を借りて自分の前に現れたことを悟ったのだった。

アル=ムルシは巡礼の後でエジプトに戻り、シャーズィリーヤ教団の後継者として、アッ=シャーズィリーの信奉者たちを導き、さらにその弟子達を増やしていったのである。その後、フマイザラにはアッ=シャーズィリーの墓を祀る廟が作られた。彼の井戸はいつも清浄な水をたたえつづけたというう。現在も、砂漠の中にあるその廟を訪れる人は少なくない。

二つの伝説の比較

このシャーズィリーヤ教団に伝わる言い伝えと、シャイフ・ウマルのコーヒー発見伝説の前半部分には、非常に類似した点が見られる。

それは、(1) 死に瀕したアッ=シャーズィリーは、清浄で甘い水を湧き出させた、 (2) さらに彼の死後、弟子のもとにベールで顔を覆った人物が現れて埋葬を指示し、弟子がベールの下を見ると、アッ=シャーズィリーその人の顔があった、という二つの「奇跡的なこと」*1が起きたことに言及している点である。


おそらくこれは、同じエピソードから派生したものと考えていいだろう。『世界の鏡』がキャーティプ・チェレビーの見聞を元にしたものであることや、シャーズィリーヤ教団の言い伝えの方がより詳細で、人物や地名なども整合性が取れていることから考えると、おそらくシャーズィリーヤ教団の言い伝えの方がオリジナルであろう。それが「モカでコーヒーを広めた」シャイフ・ウマルの出自に関するものとして、その伝説の前段に付け足されたように思われる。


シャイフ・ウマルが(実在の人物だったと仮定して)シャーズィリーヤ教団に属するスーフィーだったことは、恐らく間違いがないだろう。彼のエピソードは、シャーズィリーヤ教団のものよりも、さらに「奇跡性」を、特にアッ=シャーズィリーに顕著な「水にまつわる奇跡」を強調したものになっている。アッ=シャーズィリーの墓所で湧いた水に導かれたというエピソードや、モカに定住したところで甘く綺麗な水が井戸に湧き出したというエピソードがそれに当たる。スーフィー教団では、こうしたエピソードの類いが師匠から弟子への「教え」の中で語り継がれていくことは珍しくない。シャーズィリーヤ教団の一員であれば、当然アッ=シャーズィリーの死にまつわる話は知っていたはずだ。


穿った見方をするならば、後世にモカの近くに住み着いた一人のシャーズィリーヤ教団のスーフィーが、自分の支持者を集めるためにそうした過去の偉人(アル=ムルシ)のエピソードを、自分のものとして宣伝したのかもしれない。あるいは、本人は一切そうしたことに関わっていなかったが、時代が下るにしたがって後世、話が混同されただけかもしれない。真相はわからないが、状況証拠から見ると、ウマルの発見伝説の前半は他の人物の話だという可能性が疑われる。


なお「水の入ったボウルに導かれる」という部分にも何か別の元ネタがありそうにも思えるが、この部分の出典についてはまだ探しきれていない。ウマルの伝説によれば、モカで建てられた安息所にはこのボウルが祀られていたということなので、この部分あたりからはオリジナルなのかもしれない。

*1:シャーズィリーヤ教団の言い伝えの方では、さらに自分が死ぬときについての預言を行って的中させており、これも「奇跡」的な振る舞いに数えられるだろう。スーフィズムでは修行を通じて神と触れあうことを目的としており、その過程で神秘的な体験をすることは、その聖者の偉大さを示すことにも繋がる。ただし、聖者自身に奇跡を起こす力があるという立場ではなく(そうした主張はさすがに異端的である)、神と触れ合うことで「神の友人」として認められれば、友人である聖者のために神が奇跡を示してくれる、という位置づけである。甘い水を湧き出させるのもそうした奇跡の一つであり、アッ=シャーズィリーがそうしたように自分の未来を言い当てることは、アッラーの啓示を受けたというエピソードにつながる。また「死後の復活」のようなエピソードは、さすがに一人の聖者が起こす奇跡としては荷が重すぎるものの、「復活したのではなくアッラーがその人の姿を借りて現れた」という解釈によって、「聖者にも起こりうる奇跡」として成立する。

民衆へのスーフィズムの普及

ひとまず神秘的な部分の話は置いておくとして、シャイフ・ウマルの伝説から確実に読み取れることがある。それは13世紀以降のエジプトで信奉者を増やしたシャーズィリーヤ教団が、イエメン沿岸部(ティハーマ地方)にも進出していたということだ。


この当時のイエメンが、ラスール朝のもとで繁栄の時代を迎えていたことは、以前にも述べた(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130220#1361367628)。特にティハーマ地方では、ザビードに多くの学者(ウラマー)が迎え入れられ、学術と宗教の都市として発展した時代である。もちろんザビードでは、ウラマーによる「正統」なスンナ派が最もその権威を増しただろうが、ガザーリー以降、正統派からも許容されていったスーフィズムもまたザビードで広まり、ウラマーの一部が研究していただろうことは想像に難くない。

この時代の他地域のスーフィーと同様、ザビードスーフィーの多くも、普段は商人や職人として普通の暮らしを送っている「一般庶民」であったとされる。彼らは昼間は普通の生活を送り、夜になるとズィクルなどの宗教的な修行活動に勤しむ「修行者」であった。1330年頃にこの地を訪れた、イブン・バットゥータが出会ったのも、そうしたスーフィーたち -- スーフィズムを研究するウラマーや、それを実践する一般庶民 -- であったのだろう。


だがスーフィーたちの中には、別の生き方を送る者たちがいる。元々の語源である「スーフ(毛布)を纏う者」の名の通り、粗末な身なりで荒野での禁欲的な修行生活を送り、しばしば放浪生活を送るスーフィーたちである。彼らは、ダルヴィーシュやファキール(貧者)と呼ばれた。元々スーフィーたちの多くは、このような「ダルヴィーシュ/ファキール」であったが、12-13世紀にスーフィーの教団化が進んだことで別のタイプの人々が現れた。


教団を率いる「聖者」らは、厳しい修行の末に自分の内面で神に触れた、「神の親しい友人」であると位置づけられた*1。彼らはまた、しばしば「奇跡を顕現」させた。厳密にはそれは彼ら自身が起こすのではなく、偉大なる神が「友人である聖者のために」起こすものと解釈されるのだが、現世での御利益を求める民衆にとっては、そういうところは問題ではなく「奇跡のおこぼれに与れる」ことこそが重要である。

そのため民衆の中から聖者崇拝の動きが生まれ、また同時に自らが一歩でも聖者に近い位置に立つため、何とかしてスーフィズムの一端に触れようとしたのである。


上述したフマイザラのアッ=シャーズィリーの墓所のように、教団の「聖者」を祀る廟が各地の荒野などに作られると、そこが荒野で修行するスーフィーたちの拠り所、宿泊所となり、やがて教団の活動拠点としての役割を果たすようになっていった。そこに都市で生活する民衆が現世利益を求めて参拝に訪れるようになり、やがて彼らに混じって修行を行うようになる。そうした民衆は、従来のスーフィーたちのような「世捨て人」ではなく、普段は普通の生活を送る「俗世に生きる人々」である。やがてそうした民衆の数が都市部で増えると、町の中でも夜間に集まって修行を行うようになる。こうして民衆の間にスーフィズムが浸透していった。

*1:ムハンマドのような救世主や預言者ではなく、一歩引いた関係という点が、彼らが異端視されないために重要である。

シャイフ・ウマルの足跡

話をシャイフ・ウマルに戻そう。彼の行動は「ダルヴィーシュ」そのものであると言えるだろう。

  • 彼は(フマイザラの)「アッ=シャーズィリーの奇跡の水」を携えて、モカの地に船でやってきた(=放浪の末に来訪)。
  • 彼はモカの町の外に小屋を建てて暮らし(=俗世を離れて修行)、モカを襲った疫病から人々を救った(≒奇跡=現世利益)後、モカを離れた。
  • その後、彼はウサブ山という荒野で弟子たちと暮らすようになる(=教団化し荒野での修行生活を送る)。
  • そこにモカの住人が訪れ(=都市居住者が加わる)、モカを襲った疫病から人々を救う(=現世利益を授ける)。
  • 彼はモカの町に受け入れられ、彼のための安息所が作られる(=都市での活動拠点ができる)。


…こうしてみるとシャイフ・ウマルのエピソードは、一つのスーフィー教団がモカの町で普及する過程を、そのまま示しているようにも思われる。


この当時、ラスール朝時代のモカがどのような状況にあったのかを示す史料は、残念ながら見当たらない。モカが発展したのは16世紀以降のことであり、それ以前の文献などにはその名前はほとんど出てこないようだ。それはすなわち、この時代のイエメンをおさめていた王朝にとっては、モカが重要な場所ではなかったことを意味している。ただしティハーマ地方の例に漏れず、この地方を治める小さな部族がいたとしても不思議はない。シャイフ・ウマルが関わったのは、モカ近隣に暮らすティハーマの諸部族の一つであり、彼がその部族を巻き込んだ「布教」に成功したことを暗示している。

また彼がスアキンから船でやってきたというエピソードは、当時のエジプトの交易商であるカーリミー商人との繋がりも連想させる。少なくともそうした商船の一つに便乗して、モカに到達したのだろうと考える。


シャイフ・ウマルの伝説において、我々にとっての最大の関心事は「コーヒーの発見と利用」である。ユーカース『オールアバウトコーヒー』では、ウマルが小鳥に導かれ奇跡的にコーヒーを見つけた様子が書かれているが、『世界の鏡』にはそんな描写はない。「ウマルが追放されたウサブ山にはコーヒーくらいしか食べられるものは生えていなかった」と、実にあっさりしたものである。

しかしこれは非常に興味深い記述である。というのは、シャイフ・ウマルが追放された当時の「ウサブ山」には、当たり前のようにコーヒーノキが生えていたことを示しているからだ。


まず、この「ウサブ」とはどこを指すのか? おそらくザビードの東から北東に当たる山地を指すものと考えて間違いないだろう。現在この地域には「ウサブ・アル・アリ Wusab al Ali」「ウサブ・アル・サフィル Wusab al Safil」という地区がある。

また、キャーティプ・チェレビーの時代(17世紀中頃)の、イエメンのコーヒー産地について、ラテン語版"Gihan numa"では以下のように触れられている

イエメンには二箇所のコーヒーの産地がある:ザビードから昇った山からベイト・アル・ファキーフに向かい合う地域と、ニハリ*1の地域であり、どちらも近くにあるジーザーンの港から積み出される。

さらに、ド・サッシーの脚注中の訳文では前者の地域を指して「Ousab」と付け足しているようだ。


だがこうして実際に地図で確認すると、どこか奇妙な印象を禁じ得ない。

シャイフ・ウマルの伝説によれば、ウマルはモカの族長に追放されて、ウサブ山で暮らすようになった。だがモカからウサブ山まではかなりの距離があり、もっと近場にタイッズ南部の山々がそびえ立っている。

さらにラテン語版"Gihan numa"によれば、この「ウサブ」はモカの住人の耕地の一部と書かれている。ド・サッシー訳には「耕地の一部」という記述はないようなので、こだわる必要もないかもしれないが、当時はおそらくティハーマの小さな部族の一つに過ぎなかったモカの人々が、ウサブ山までその生活圏の一部にしていたとも考えにくい。


ここで前段で述べた彼の足跡を、もう一度、別の切り口で並べてみよう。

  • 彼は(フマイザラの)「アッ=シャーズィリーの奇跡の水」を携えて、モカの地に船でやってきた(=放浪の末に来訪)。彼はモカの町の外に小屋を建てて暮らし(=俗世を離れて修行)、モカを襲った疫病から人々を救った(≒奇跡=現世利益)後、モカを離れた。
  • その後、彼はウサブ山という荒野で弟子たちと暮らすようになる(=教団化し荒野での修行生活を送る)。そこにモカの住人が訪れ(=都市居住者が加わる)、モカを襲った疫病から人々を救い(=現世利益)、モカの町に彼のための安息所が作られる(=都市での活動拠点ができる)

このように途中で切って二つに分けると、この二つのシーケンスがそれぞれ独立しても成り立つことが分かる。最初にフマイザラからモカにやってきたシャーズィリーヤ教団のスーフィーと、ウサブ山で修行した後モカに広めたスーフィーは、同一人物でなくても話は成立する。むしろ話の後半だけを見る方が、スーフィー教団が民衆に普及する展開にぴったり合うことに気付く。

つまり『世界の鏡』に見られるシャイフ・ウマルの伝説は、(1)アッ=シャーズィリーの死を看取った弟子(おそらくアル=ムルシ)、(2)フマイザラからモカにやってきたスーフィー、(3)ウサブ山で修行した後モカに広めたスーフィー、という、少なくとも三人の、おそらくいずれもシャーズィリーヤ教団に属するスーフィーの話が合成されている可能性が考えられる。


なぜ(2)と(3)のスーフィーの話が結びつけられたのか。それはこの話が、モカとコーヒーの起源を結びつけるものとして語り継がれたからだろう。モカの港は、特に17世紀頃からコーヒーの積出港として世界に知られるようになったが、それはモカが西欧諸国への窓口であったためである。イエメン国内では、大きな市場があって栄えていたベイト・アル=ファキーフの町が、モカと並ぶコーヒーの取引場であり、そこからジーザーンなどを介してイスラム圏に輸出されていた。

いわばモカとベイト・アル=ファキーフの人々は、コーヒー取引を巡るライバル同士の関係にあったと想像される。そして(3)のスーフィーの物語の舞台であるウサブ山は、モカよりもザビードやベイト・アル=ファキーフに近く、人々はそちらが「本家」だと考えたのだろう。そこでモカの人々は、(3)のスーフィーと、より古い時代にモカの近くで暮らしていた(2)のスーフィーの話を結びつけ、二人が同一人物であるとすることで、自分たちの町と「コーヒーの起源」を結びつけたのではないだろうか。


シャイフ・ウマルの伝説が、もしキャーティブ・チェレビーが記したとおりに、アッ=シャーズィリーの弟子に当たる一人の人物だけを指すのであれば、アッ=シャーズィリーが没した1258年からさほど遠くない時代には、ウマルがウサブ山に生えていたコーヒーと出会っていたことになる。しかし、1330年にイエメンを訪れたイブン・バットゥータは、明らかにザビードからイッブやタイッズに向かう、ザビード東部の山中を通っていたにも関わらず、コーヒーを目撃した記録を残していない。また14世紀半ばにラスール朝のスルタンが書いた農業指南書にも、コーヒーに関する記録はなく、これらの史料と齟齬を生じる。

だが、もしシャイフ・ウマルが、アッ=シャーズィリーの直弟子より後の時代の、何人かのスーフィーたちの話が組合わさったものだとすれば、最後の一人「ウサブ山のスーフィー」はもっと後の時代の人物であり、彼こそが「飲み物としてのコーヒー」を生み出した人物である可能性がある。


ここでもう一人、『世界の鏡』とは別のスーフィーのことが思い出される…それは、アブドゥル=カーディル『コーヒーの合法性の擁護』で引用された、イブン・アブドゥル=ガッファールが紹介した、ザビードの長老の目撃談に登場する。当時90歳を超えていたこの長老は「若い頃、アデンでザブハーニー(とハドラミー)のところに、一人のファキールがやってきて、カフワを薦めるのを見た」と語っている。そしてザブハーニーらは公衆の面前で、そのカフワを飲んだ、と。コーヒーから作られたカフワが実際に飲用されたことの、最初期の記録である。

このとき、ザブハーニーにカフワを薦めた「ファキールダルヴィーシュ *2」の素性は不明であるし、どこから来たかもよくわからない……しかしウサブ山からはるか南の、モカとアデン、二つの港町にまで「さすらいのスーフィー」の手によって広まったのは確かだろう。

*1:「ニハリ/ネハリ Néhari」に該当する地域がどこかは良くわからない。ただし、ベイト・アル・ファキーフの北、サナアの町の西北西あたりに「バニ・アン・ネハリ」すなわち「ネハリ族(の地)」と呼ばれる山があるようで、ベイト・アル・ファキーフやジーザーンにも近いことから、この地を指している可能性はありそうだ。

*2:ファキール(貧者)はダルヴィーシュの中でも特に、托鉢などで生活する修行僧を指す。当初、ダルヴィーシュとファキールはほぼ同義語であったようだ。ただし後にスーフィズムが民衆に浸透すると、「ダルヴィーシュ」の語は、世俗の生活を過ごすスーフィーの中で階梯が高い人にも使われるようになった。

おさびしウサブ山のコーヒー

ラテン語版"Gihan numa"によれば、この「ウサブの地」は当地で暮らす人々の耕地の一部ではあったが、コーヒー以外に食べられるものがない場所だった、とされている。他の作物がない「さびしい土地」だった最大の理由は、その標高によるものだろう。コーヒーノキもカート*1も高地で育つ植物である。


最初にウサブ山にコーヒーを持ち込んだのは誰だったのだろうか?

これに対する明確な答えは、残念ながら存在しない。

いくつかの仮説

時代を遡って考えれば、エチオピア西南部から奴隷がやってきた9-10世紀以降あたり、特に彼らエチオピア出身の奴隷達がザビードでナジャーフ朝を建てた11-12世紀頃は一つの候補になるかもしれない。イブン・スィーナーが『医学典範』に「イエメンのブンクム」のことを書いたのもこの頃だった。しかしその後、コーヒーを思わせる記述は史料から姿を消した。


13世紀になり、ラスール朝の時代には、何人かのスルタンがザビードやその近郊での農耕を奨励し、自らも優れた農業指南書を著した。しかしそれらの農業書の中にはコーヒーノキやカートに関する記録が見られない。彼らが重視していたのは、ザビード近郊の平野部での農業の奨励であり、ウサブのような高地の農地利用はあまり考えていなかったのだろう。1330年にイエメンを旅したイブン・バットゥータの記録にも、コーヒーの栽培はおろか、その存在を伺わせる記述がない。

ただし、ひょっとしたらこのとき既に、コーヒーノキが持ち込まれていた可能性も無碍に棄てるわけにはいかないだろう。ナジャーフ朝以前のザビードエチオピア人奴隷出身の誰かが、故郷を懐かしみ、こっそり持っていたコーヒーの種をウサブ山に播いた -- エチオピア西南部では、それは単に種や実を食べるだけのためではなく、移住や結婚などの生活儀礼を意味する儀式でもある。時が流れて奴隷たちの王朝が終わりを告げると、その木のことはすっかり忘れ去られたが、その子孫はウサブ山で細々と生き延びていた。そしてさらに時が流れて、修行に訪れたスーフィーがそれを見つけた…そんな可能性もあるかもしれない。


また15世紀の初めに、エチオピアのゼイラからイエメンに逃れてきたワラシュマ家の残党とともにやってきた可能性もあるかもしれない。彼らはエチオピア西南部のイファト・スルタン国キリスト教エチオピア王国との戦いに敗れてイエメンに辿り着いた。このとき、西南部にあったコーヒーノキやカートのさまざまな利用法と、それらの植物そのものをイエメンに持ち込んだ可能性もあるだろう。少なくとも1418年に亡くなったアリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリー…「もう一人のアッ=シャーズィリー」が、それらの利用法の一つとしての「カフワ」を広めていたのは確かなようだ。だが、当初それはコーヒーの葉やカートを使うものであり、実や種を使うものではなかった。

一方で、実や種を嗜好品として使う風習は、最初にザビードにくらすエチオピア奴隷階層出身の人々(アビード)に受け入れられ、そうしてザビードでの利用者が増えたことで、ザビードから近いウサブ山で栽培する者が現れたかもしれない。ウサブ山はスーフィーの修行場でもある。彼らはウサブ山で実ったコーヒーの実を集めて、あるときは実の部分だけで、あるときは種ごと煮出してスープを作って餓えをしのいだ。そのうちに、それもまた眠気を取り除く「カフワ」になることを見いだした。

コーヒーノキでカフェインを最も多く含む箇所は、種子(コーヒー豆)と新芽の部分である。コーヒーの葉を用いるカフワは、新芽だけから作るならばそれなりの効果が期待できるかもしれないが、コーヒーはそんなにどんどんと新しい芽を付ける植物ではないし、古い葉ばかりになると効き目は落ちるだろう。実の部分は種子よりもカフェインは少ないが種子に比べればまだ栄養がある。栄養を取りたいならば実の部分を、覚醒作用をより強く得たいならば、実と種子を合わせて「カフワ」にすることは、理に適っているように思える。


ともあれ、保存がきかないカートの葉に比べて、コーヒーの実や種は乾燥させれば長持ちしその効果も衰えなかったから、放浪生活を送るファキールたちにとって便利なものだったことは間違いない。さらに、それは高い山から遠く、当時の輸送手段ではカートの生葉を運ぶことができなかった港町アデンでも使うことが可能な「カフワ」になった。はじめてコーヒーを公認したアデンのムフティー、ザブハーニーは、若い頃非常に勉強を重ね、後にスーフィーになったと伝えられる。おそらく彼はスーフィズムを学びファキールたちと交流するうちに、この「カフワ」に出会い、そしてそれをアデンの人々にも広めたのである。

*1:標高1000-2500mで育つ