はじまりの物語 (6)


#舞台をイエメンにうつして、6-14世紀頃の歴史。一応、ここ(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130122#1358867217)からの続き。

イスラム教の受容

575年、イエメンへのサーサーン朝ペルシアの介入によって、アクスム王国が撤退するとイエメンはサーサーン朝の占領下となった。サーサーン朝から派遣されたイエメン総督によって統治され、6世紀末には正式にサーサーン朝の自治州になった。

7世紀初頭、ムハンマドが始めたイスラム教はまたたく間に広まりはじめ、その動きは周辺の大国にとっても無視できないものとなっていた。それはサーサーン朝ペルシアと、そしてマッカ(メッカ)やマディーナ(メディナ)に隣接したイエメンにとっても同様であった。628年頃、サーサーン朝ペルシアの皇帝、ホスロー2世は、イエメンの総督バドハーンに対して、ムハンマドを自分の前に出頭させるように命を下した。バドハーンはムハンマドのもとに二人の使者を送ったが、ムハンマドはそれを拒絶し、こう予言した。「王はもう間もなく死ぬというのに、私が行く必要があるのか」と。この返事を聞いたバドハーンが、至急ペルシアの都クテシフォンに使いを送ったところ、果たしてホスロー2世は、長男(カワード2世)に暗殺されていた*1。この知らせを聞いたバドハーンはムハンマドに心服してイスラム教に改宗し、イエメンはイスラム(アラブ)帝国の一部となった。


ムハンマドが632年に亡くなると、その後の覇権を巡って、イスラム帝国の一部に組み込まれていた部族が独立の動きを見せた。その中には「ムハンマドの次の預言者」を僭称する者も現れ、彼らはイスラム教徒からカッダーフ(偽預言者)と呼ばれ、彼らに従ってイスラム教を棄てた者たちは棄教者または背教者(リッダ、アフル・アルリッダ)と呼ばれた。ハニーファ族のムサイリマや、タミーム族の女預言者サジャーフなどがその代表であるが、いずれも最終的には、ムハンマドの遺志を継いだ正統カリフらによって制圧された。イエメンでも、ティハマ地方でアスワドという名の預言者が、マズヒジュ族のカイス・ブン・アルマクシューフと結託して蜂起し、当時のカリフを追い出して首都サヌアを一時的に占拠したものの、最終的には鎮圧された*2。またハドラマウト地方では633年初頭にキンダ部族の王アシュアス・ブン・カイスが棄教して大規模な反乱を起こしたが、鎮圧されて再びイスラム教を受け入れた*3

その後、ウマイヤ朝(661-750年)の時代、アッバース朝(750年-)の時代になっても、イエメンはイスラム帝国の一部として統治されていた。

参考

*1:このホスロー2世の悲劇については、後にペルシアの大詩人ニザーミーが『ホスローとシーリーン』の題材としている。

*2:当時のイエメンでは、バドハーンの死後、後を継いだファイローズが総督として統治していた。マズヒジュ族によりサヌアの有力者数名が暗殺され、ファイローズは一旦、山間部に逃げ出し、そこで戦力を整えてから反撃し鎮圧した。この時すでに偽預言者アスワドはカイスと不仲になり、殺されていたという。

*3:ただし、アシュアスはその後再び反乱を起こした。

独立イスラム王朝の成立

817年、ティハマ地方でアック族('Akk)とアシャーイル族(Asha'ir)という二大部族の反乱が起きた。この知らせを受けたアッバース朝のカリフ、マアムーンは、イブン・ズィヤード*1を将軍(アミール)に任命して派遣した。反乱が鎮圧された後、マアムーンは両部族の領土のちょうど中間にあたる場所に街を築き、そこを軍事拠点として両部族を牽制するように彼に命じた。この都市が後に学術都市として大繁栄を遂げるザビードである。

819年、マアムーンは毎年朝貢を受けることを条件に、イブン・ズィヤードをその領主としてティハマ地方が独立することを承認した*2。こうして生まれたのがズィヤード朝である。ズィヤード朝は、アッバース朝支配下にあるスンナ派の王朝*3として、ザビードを首都としてティハマ地方を統治した。その勢力はティハマ地方だけでなく、ハドラマウト地方や、上イエメン(イエメン北部の山岳地帯)の一部にまで及んだという。


一方、9世紀末頃から上イエメン地域ではシーア派の勢力が拡大しはじめていた。元々、上イエメンは、いくつもの小さな山岳部族が分かれて暮らしていた地域であり、彼らは概ね内向的で表舞台にあらわれることは少なかった。しかし893年、ムハンマド直系子孫の一人*4ヤヒャ・イブン・カシム・アッ・ラッシ(ヤヒャ、Yahya bin al-Husayn bin al-Qasim ar-Rassi)が、マディーナから上イエメンの一部族に招かれた。彼の祖父であるカシム・アッ・ラッシはザイド派を体系化した偉大な法哲学者であり、ヤヒャもまた優れた学者として上イエメン一帯にザイド派を広めた。そして897年、ヤヒャをイマーム(最高指導者*5)とするザイド派の王朝、ラシード朝が成立した。彼の子孫(ラシード家/カシミド家)はその後、20世紀に至るまでイマームとして(1962年にイエメン王国がなくなるまで)上イエメンの宗教指導者として君臨しつづけた。そして、ティハマ地方や南イエメンなどに成立するスンナ派勢力と、対立を繰り返すことになる。


909年、シーア派の一分派であるイスマーイール派北アフリカにあったスンナ派アグラブ朝(現在のチュニジア)を滅ぼし、イスマーイール派の指導者であるウバイドゥッラー(アブドゥッラー・マフディー)がファーティマ朝を勃興して、アッバース朝に対抗して「カリフ」を名乗った。やがて969年、ファーティマ朝はエジプトのイフシード朝を滅ぼしてエジプトを支配し、10世紀後半の最盛期にはエルサレムを含むシリア南部や、マッカやマディーナを含むヒジャース地方(アラビア半島の紅海沿岸北側)がファーティマ朝支配下となった。


ファーティマ朝の成立は、それまでアッバース朝という一つの大国のもとで繋がっていた地中海地域とインド洋地域を再び分断することになった。アッバース朝時代には、その中心地を経由するペルシア湾が、インド洋と地中海を結ぶ主要な交易路となり、紅海交易は下火になっていたが、ファーティマ朝の時代になると、敵対するアッバース朝の支配地を避けて、紅海からインド洋へと抜ける交易路が、再び重要なものになっていった。このことが10世紀頃の紅海交易の発展、特にイスラム商人たちの急成長につながり、エチオピアではこれがキリスト教王国の内陸部への進出の要因になったことは、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130205#1360059611)述べた。

ファーティマ朝は、その勢力範囲の拡大に伴って、周辺のスンナ派勢力に対してやや融和的な方針を採るようになった。南イエメンのズィヤード朝に大規模な侵攻を行わなかったのもそのためであろう。しかしその一方でファーティマ朝は、同じシーア派である上イエメンのラシード朝を支援しており、彼らを介して間接的に影響を与えていたと考えてよさそうだ。

参考

*1:ムハンマド・イブン・アブドゥラー・イブン・ズィヤード

*2:この地方は、アック族やアシャーイル族以外にも、先述のマズヒジュ族やマッカのクライシュ族など多くの部族が存在し彼らを監視する必要があったことに加えて、この当時、イスマーイール派Qarmatiansなどシーア派の勢力が増しつつあったこともあり、軍事拠点としての強化が必要だったためと思われる。

*3:アッバース朝は元々、イスラム世界で多数派を占めるスンナ派ウマイヤ朝に対して、少数派のシーア派が起こした、西暦750年のいわゆる「アッバース革命」で生まれたシーア派の王朝であったが、革命後は多数派であるスンナ派との融和政策を採っていった。後にこれに対して異を唱え、独自のカリフを擁立して独立したのがエジプトのファーティマ朝で、シーア派イスマーイール派王朝であり、より強硬路線を採った。

*4:ムハンマドの娘ファティーマとムハンマドの従兄弟アリーの長子であるハサン・イブン・アリーの子孫。シーア派においてハサンは第2代イマームかつ殉教者として、非常に肯定的に評価される。

*5:イマームの称号はスンナ派シーア派の両方に見られるが、特にシーア派におけるイマームは最高指導者として、その時代の最重要人物になる。基本的には、ムハンマド直系の子孫がイマームとなり、誰がイマームとして相応しいかを巡ってシーア派は途中で分派した。多数派を占める十二イマーム派、7代目イマームの継承時にイスマーイールを支持したイスマーイール派、5代目イマームの継承時にザイドを支持したザイド派などがある(ウィキペディアシーア派も参照)。 十二イマーム派イスマーイール派では、途中でイマームの血統が途絶えたが、これを「ガイバ」と呼び、イマームは人々の前から隠れた状態にあり、やがて救世主(マフディー)として現れるという一種の終末思想的な概念に繋がっている(ただしザイド派はガイバ説を支持していない)。イマームが隠れている間、ウラマーイスラム法学者)がその代理として人々を導くという位置づけになる。

エチオピア奴隷の王朝

上述したことをまとめると、ズィヤード朝の時代、下イエメン*1周辺には、

  • アッバース朝から来たズィヤード朝
  • 下イエメンの先住部族(アック族、アシャーイル族、クライシュ族、マズヒジュ族など)
  • 上イエメンのラシード朝

という3つの勢力が存在した。しかしもう一つの一大勢力があった。それは

である。


9世紀の初頭から、ズィヤード朝はザビードの街を建設していったが、そのためには多くの人手が必要となった。そのため、9-10世紀にかけてエチオピア内陸部で捕らえられたエチオピア人奴隷が数多く、ザビードの人々に買われたのである。その多くはズィヤード朝のスルタンや役人たちの奴隷として働き、一部のものは自由人としての身分を獲得することに成功して、ザビードで暮らすようになった。またズィヤード朝の男たちがエチオピア奴隷の女に子どもを生ませ、ティハマ地方には、エチオピア人の血を引く肌の黒い者たちがどんどんと増えていった。後に12世紀にこの地を訪れたウラーマーが、当時、ティハマ地方では「すべての人の肌は黒い」と記録するほどである。エチオピア人の血をひく彼らもまた、自分たちのルーツをエチオピアにあると考え、奴隷たちの勢力に合流する者が多かった。そうして、彼ら奴隷たちは数で勝る「被支配者層」として、少数の「支配者層」であるズィヤード朝の人々と対立する勢力になっていった。


1018年、ズィヤード朝は、7代目のスルタンであるイブラヒム(在位1012-1018)が家臣により殺されて終焉を迎える。これによって混乱したザビードを収めたのは、奴隷たちだった。1021年、ズィヤード朝に仕えていたエチオピア人奴隷の一人、ムアヤド・ナジャーフが奴隷たちをまとめ、彼らの王朝であるナジャーフ朝を成立させたのである。ナジャーフ朝は、ズィヤード朝が残した制度を踏襲して、ザビードとその周辺のティハマ地方を統治しようとした。彼らの王朝は、結果的に約140年間に亘って(1159年まで)存続した。


しかしアッバース朝という後ろ盾を持たないナジャーフ朝は求心力に劣り、この時期にイエメンでは小さな王朝がいくつも勃興していった。

1037年にナジャーフが死ぬと、上イエメン地域のマンスールという、サヌアの西にあった地区でスライフ族が蜂起し、シーア派王朝であるスライフ朝を興した。スライフ朝はサヌアを都として*2、一時期はマッカやアデンまでをその勢力下に置いた。スライフ朝は1037年から1080年までの間、ナジャーフ朝をその支配下に置いて、ザビードをその自治領としていたが、1080年にナジャーフ朝が再び蜂起して独立を果たし、その後は互いにザビードを取ったり取られたりの攻防が繰り返された。


アデンでは1083年にズライ朝が成立した。アデンの有力者であったカラムの二人の息子(アッバースとマスウド)が共同統治する体制で、スライフ朝の承認を受けて成立した。アデンはその後1135年に、ペルシア湾に浮かぶキーシュ島(Kish island)の王に襲撃を受けて一時的に占領されたが、アデンに居留していた商人らも協力して撃退することに成功したようだ*3


スライフ朝とナジャーフ朝は1080年以降、ザビードを巡って争いを繰り返していたが、1098年、上イエメンのハムダン族がハマダーン朝を興してサヌアとサーダを制圧し、1101年にスライフ朝は滅びた。また一方ナジャーフ朝も、1159年にザビードでマフディー朝が興り、滅ぼされた。

こうして、アデンのズライ朝、上イエメンのハマダーン朝、ザビードのマフディー朝という情勢になったものの、長くは続かなかった。1169年、ファーティマ朝の最高司令官となったサラーフッディーンによってアイユーブ朝が建国され、1173年にはアイユーブ朝がイエメンに侵攻した。ズライ、ハマダーン、マフディーの三朝はほぼ同時期に攻め落とされて、イエメン全域はアイユーブ朝支配下に置かれた。アイユーブ朝の始祖であるサラーフッディーンの兄、トゥーラン・シャーがイエメン・アイユーブ朝のスルタンとなり、その後1229年までアイユーブ朝による統治が続いた。

参考

*1:ティハマ地方からアデンにかけての沿岸部とタイッズなど南イエメンを含む一帯

*2:後にイッブ近郊のジーブラに遷都した

*3:海上交易の世界と歴史』 2・2・2 インド洋の交易都市とイスラーム交易民 http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi2/page002.html

ラスール朝時代

イエメン・アイユーブ朝の次に成立したのがラスール朝(1229-1454)である。ラスール家は元々、1180年*1アッバース朝からイエメンに派遣された特使である、「ラスール」ことムハンマド・イブン・ハルンを父祖とする一族である。「ラスール Rasul」とは元々、「伝令(メッセンジャー)」という意味の言葉である。ただしアラビア社会において、このように本名以外の「字名」で呼ばれるのはごく一部の限られた人物だけであり、ラスールはその職務への忠実さから、イエメンの人々の尊敬を集めた人物であったという。ラスールはトゥルク系遊牧民トゥルクマーン、オグズ)の族長出身であった。


ラスールの息子、アリー(アリー・イブン・ラスール)は1222年に、イエメン・アイユーブ朝の最後のスルタンとなるマスウド・ユースフ(在位1215-1228)によってマッカの総督に任命された。そして1228年にマスウドが亡くなると、アリーの息子、マンスール・オマール(マンスール・オマール・イブン・アリー)が新たにザビードラスール朝を興した。この頃アイユーブ朝の本国は十字軍との対立で忙しくてイエメンどころではなく、その隙を突いて独立を果たした形である。彼は続いて、上イエメン地域のザイド派との戦いにも勝利して、サヌア周辺へも勢力範囲を拡大した。またマッカに駐留しつづけていたアイユーブ朝の軍隊を1241年に撤退させることに成功した。

さらにラスール朝2代目スルタン・ムザッファルの時代には、ハドラマウト地方のズファールや、バール・アル・アジャム(Barr al Ajam)と呼ばれた、現在のソマリアのアデン湾沿岸部にも遠征して、アデン湾から紅海の入り口にかけての一帯をその勢力下に収めた。こうしてラスール朝はイエメンを制圧し、その時代は200年以上にわたる繁栄が続く、イエメンの黄金期になったのである。


以下にラスール朝の主要な都市について概説したところで、今回の歴史については一区切りにする。

学術都市 ザビード

ラスール朝時代のイエメンの都市で特筆すべきは、やはりザビードであろう。

ラスール朝以前のザビードは、軍事的政治的拠点としての意味が強かったが、ラスール朝の時代には、学術・宗教の都として大いに発展を遂げた。ラスール朝以前、ザビードには若干のマスジド(集団礼拝所、モスク)がある程度で、アイユーブ時代に立てられたマドラサ(学院、イスラムの学校)が一つあるのみであった。しかしラスール朝に入ると、歴代スルタンやその妻娘たちがモスクやマドラサを相次いで建設させ、1392年にはその総数は230*2に上っていたという。また当時の死亡録からの推定では、ラスール朝イエメンの学者(ウラマー)のおよそ4分の1がザビードで活動していたと概算されるようだ*3


ラスール朝ザビード学術都市とした理由については、栗山保之「ザビード : 南アラビアの学術都市」に詳しい。そこには大きく二つの理由があった。(1)イエメンの人々に対してラスール朝の優位性を示す必要性、(2)上イエメンのザイド派への対抗、である。

ラスール朝のルーツは、ペルシアのアッバース朝から送り込まれた「ラスール(伝令)」であり、その子孫がアイユーブ朝に承認されたというもので、イエメンに元から暮らすアラブ人部族らにとっては「後からやってきた余所者の外国人が、自分たちアラブ人を支配する支配者の座についた」ことに他ならない。そこでラスール朝は、自分たちが先住部族たちに比べて進んだイスラム教の知識を持つイスラム学者であり、それによって人々を導く「指導者」の立場であることを示そうとしたのである。

またこの当時、上イエメンのラシード家イマームが率いるザイド派の諸部族は、ティハマ地方などの下イエメンに向けて、隙あらば南侵しようとする動きを見せていた。この南侵においては単純な武力だけでなく、イスラムの教義に対する学問(法学)も重要な力になっていた。ザイド派は、各地のシーア派から優れた学者を多く招聘しており、その法学を基盤として自分たちの正統性と先進性を周囲の部族に示すことで彼らを味方につけ、自分たちの領域を拡大しようとしていたのである。

ラスール朝は、軍事面ではタイッズの要塞に拠点を移してザイド派の南侵に対抗したが、それだけではなく学術上でも対抗する必要があった…文字通りの「理論武装」である。そして、そのためにザビードに多くの学問・宗教施設を建設し、多くの学者を招いて、一大学術都市に発展させたのである。


ザビードはまた、アラビア半島の中では例外的に緑に恵まれたティハマ地方のほぼ中央にあって、ナツメヤシや麦、モロコシなどの農作物に恵まれた立地であった。政治や軍事の中心がタイッズに移った後でも、重要拠点の一つであったことには代わりがなく、学術のみならず、経済・政治・軍事上も大きな存在であったと考えられる。またザビードはマッカ巡礼の中継地でもあり、多くの旅行者や巡礼者、学者らがこの地を訪れている。14世紀の大旅行家イブン・バットゥータも1330年頃にイエメンを旅行したとき、ザビードにしばらく滞在して学者たちからの歓待を受けたことが『三大陸周遊記』に記録されている。

首都 タイッズ

ラスール朝の成立当初、ラスール家のスルタンはザビードを拠点としていたが、やがて彼らはタイッズに居住地を移した。タイッズは山間の外敵からの防御に非常に優れた場所に位置しており、「イエメンの諸要塞の中でも最も大きい」と言われる要塞がそこに築かれ、「王の玉座・王の要塞」と呼ばれた。ラスール朝の勢力圏は上イエメンの一部にまで届いていたものの、依然として北の山岳地帯にはザイド派の部族が残っていた。ラスール家がタイッズに軍事拠点を移したのは、彼らザイド派勢力に対抗するためだと言われている。ズィヤード朝時代にはザビードが周辺部族を牽制するために首都となっていたが、ラスール朝時代にはその役割がタイッズに移ったと言ってもいいだろう。「ラスール家のお膝元」となったタイッズにも、多くの宗教・学術施設が建設されたが、ザビードに比べるとその数は少なかったようだ。ザビードラスール朝の「学術と宗教の首都」であるとすれば、タイッズが「政治と軍事の首都」であった、と言えるかもしれない。

交易港 アデン

アデンは紅海とインド洋を結ぶアデン湾に面し、昔から海上交通の重要拠点として知られた港である。この時代のイエメン沿岸部には、この他にザビードの外港であるアフワーブ*4ハドラマウトの主要港であるシフルなどの港があって、いずれも交易で栄えていたが、その中でもアデンは周辺海域とアラビア半島との交易の中心的役割を果たす主港であった。特に、10世紀初頭のファーティマ朝の成立によって紅海交易の重要性が増すと、交易港としてのアデンの重要性も増加した。ラスール朝以前にもズライ朝やキーシュ島などの勢力がイエメンの中でも特にアデンに注目して、その支配を企てた大きな理由だったと思われる。


ズライ朝やアイユーブ朝、そしてラスール朝など、アデンを支配した王朝はアデンでの交易振興に積極的であった。交易船を海賊の襲撃などから守るための、いわゆるシーレーン海上交通路)の維持と、入港管理を徹底した。さらに、かつてファーティマ朝が紅海交易で行ったのと同じように、シャワーニー船団(護衛船団)によって海賊の襲撃から交易船を保護する方式を採った。その代わり護衛船団の維持費用として、商人たちは「シャワーニー税」という一種の関税を余分に課税された。この方式はイエメンではアイユーブ朝時代に採用され、ラスール朝もそれを引き続き実行していた。


ラスール朝にとって、交易によるイエメン国内の経済振興だけでなく、港を利用する商人たちからの関税収入も直接の財源となっていた。このため、アデンはラスール朝の「交易と経済の中心」であったと言えるかもしれない。その一方で、アデンにおいては宗教や学術施設、学者の数はザビードやタイッズと比べてかなり少なく、割と純粋な「商人たちの町」であったことが伺える。

北の都、サヌア

現在のイエメンの首都であるサヌアも、この当時ラスール朝に属する一都市であった。当時サヌアには多くの人家があり、多くの人が暮らす大きな町であったことが伺える。しかしラスール朝の関係者がサヌアで建設した宗教・学術施設は極端に少ない。これは、この地域が北方に近く、ザイド派の人々が近隣に暮らしていたためであったと考えられている。

参考

*1:この年、アッバース朝ではナースィルがスルタンに即位し、アイユーブ朝の呼びかけに応じて、キリスト教徒らが占拠していたエルサルム王国に対する「ジハード」を宣言している。その伝令役をつとめた人物かもしれない。

*2:おそらく小さなものまで含めた数

*3:栗山保之「ザビード : 南アラビアの学術都市」オリエント 37(2), 53-74, 1995

*4:12世紀頃まで、ザビードの外港はガラーフィカであったが、ラスール朝時代にはその南に新しくアフワーブ港が開かれていた

この時代のコーヒーの可能性

イブン・スィーナー『医学典範』再考

以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130205#1360059618)9-13世紀のエチオピアの項で述べたように、10,11世紀のペルシアにおいて、アル・ラーズィーとイブン・スィーナーという二人のイスラム医学者が、その医学書の中で、ブン(Bunn)やブンカム(Bunchum)の薬用に言及している。


特に現存するイブン・スィーナーの『医学典範』においては、ブンカムが「イエメンからもたらされる」という記述が見られることは重要だろう。この「ブンカム」が果たして本当にコーヒー豆を指すかどうかでは定かではないが、もし本当であれば、イブン・スィーナーが活躍した11世紀に、イエメンにコーヒー豆があったことを示唆するからだ。


イブン・スィーナー(アビセンナ)は、980年、サーマーン朝の首都ブハラの近郊で生まれた。その父はサーマーン朝の高官として仕えるイスマーイール派の偉大な学者であり、慎重に彼に教育を施した。彼は並外れた知性と記憶力の持ち主で、10歳のときにはクアラーン(コーラン)を完全に暗誦し、14歳のときには先生を超え、18歳のときにはもう既に学ぶものは残っていなかったという。彼は、数学や医学などにも才能を発揮した。16歳のときに医学に目覚め、18歳のときには医者として大成していたという。彼が17歳のときに最初に診た患者はサーマーン朝の君主であり、彼を難病から救った功績から、サーマーン朝王宮の図書館*1に自由に出入りすることを許された。


しかし彼が22歳のときに最大の理解者である父が亡くなり、また1004年にサーマーン朝が滅びたことで彼はパトロンを失った。サーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のスルタン、マフムードの誘いを拒絶し、彼はカスピ海東側(トルクメニスタンウズベキスタン、イラン東部のホラーサーン州)の地方で、学識ある知己を訪ねながら、流浪の生活を送った。『医学典範 The Canon of Medicine』の執筆は、この流浪時代の1010年頃に開始された。

その後、彼はテヘラン近郊の町、レイ(Rai)に定住する。ここはアル・ラーズィーの生まれ故郷であり、晩年を迎えた地でもあった。ここで彼はブワイフ朝に厚遇された。『医学典範』を書き上げたのはこの時代で、1020年のことだったと言われる*2


『医学典範』までのイブン・スィーナーの足跡から考えると、彼が直接イエメンに足を踏み入れたとは考えにくい。彼の医学の知識は、サーマーン朝時代にブハラの王宮で培ったものか、流浪時代の見聞や学識者との交流で培ったものか、あるいはひょっとしたら、レイに定住したときにアル・ラーズィーの残した『医学集成』に接していた可能性と、いろいろな要素が考えられる。彼が実際に「ブンカム」の実物を目にしていたのか、または単に書物から知識を得ていただけなのかは、今となってはわからない。ただし以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130205#1360059618)示したように、『医学典範』の「ブンカム」の項に、良品と粗悪品の見分け方についての記載が見られることから、この時代にイブン・スィーナーが「ブンカムの実物」を直接目にしていた可能性を、安易に否定することはできなさそうだ。


彼が『医学典範』を執筆したのが1010-1020年頃である。一方、イエメンのザビードエチオピア人奴隷たちがナジャーフ朝を興したのが1021年で、この時に既に一つの王朝を興すだけの力があったのだから、少なくともその少し前から、エチオピア人奴隷たちの力は十分に強まっていたと考えていいだろう。エチオピアキリスト教徒らやイスラム教徒らが内陸部に侵出し、奴隷を輸出するようになったのが9世紀頃、ザビードの建設が始まったのが10世紀初頭なので、10世紀末には、当時直接エチオピアから連れてこられて奴隷の身分にあった者たちだけでなく、その子孫たち -- 特にエチオピアの女奴隷とその主人たちとの間に生まれた者 --や、奴隷から自由民の地位を獲得した者とその子孫たちが、当時のザビードに居住していたと考えられる。


彼らエチオピア起源の人々が、ある種のラスタファリアニズム的な運動を起こしていたかどうかについては定かではない。しかし苦境の中で、故郷であるエチオピア西南部の文化や風習への回帰を望んだとしても、不思議はないだろう。当時もし本当に、イエメンに「ブンクム=コーヒー豆」があったとしたら、それはそういった流れにあったのかもしれない。

ラスール朝時代アデンでの交易記録

ラスール朝時代のアデンにおいては、交易船の入港が厳しく管理されており、輸入品に対して通常の関税とシャワーニー税が課されていた。栗山保之『海と共にある歴史 イエメン海上交流史の研究』によれば、当時の税務記録の資料がいくつか残っており、そこから当時のアデンでの交易取扱物品が伺える。


13世紀末の税務文書を編纂した『知識の光*3』と呼ばれる資料によれば、当時のアデン税関で扱われた取引品目は413点に及んでいる。この中にはアデン近郊だけでなく、西は地中海北岸から、東はインド、東南アジア、そして東アジア*4に至るまでの広大な地域で産出されたものが並んでいる。このうち、エチオピアからの交易品としては、男女それぞれの奴隷などが挙げられているが、残念ながらコーヒーに関連すると断言できそうな物は見られないようだ……いくつか、名前が似ていそうなものはあるのだが。

例えば、奴隷以外のエチオピアからの交易品としては、

が挙げられている。

「qatir」などは何となく、ハラー地区で飲まれているコーヒー葉茶(カティ/クティ)の音を連想しないでもないが…他に「龍血樹樹脂 qatir munqa」という項目があることと、イエメンにおいてはギシルとブンの利用はあっても、カティが利用されていたという記録はないので難しそうだ。

また「qust」(コスタス)も、なんとなくそれっぽくなくもないが…これは Costus arabicusというショウガ科の植物の一種で、香辛料として使われるものらしい。またリストには、エチオピア産コスタス以外にインド産コスタスと、産地の記載のないコスタスが書かれており、この時代にコーヒーがエチオピア以外の地域で生産/採取されていたとは考えにくいので、別物だと考えて良いだろう。

またいくつかの品目に"qishir"、"gishir"という文字が見られるのは興味深い。

  • 桜桃果樹皮 (qishir al-mahlab)
  • 乳香樹皮 (qishir al-luban)
  • 皮付き桜桃樹果 (mahlab bi-gishir-hu)

ここからもqishirやgishirが、植物の皮を表す言葉であることがわかる。後にイエメンで飲まれることになるコーヒーの殻(乾燥後の実とパーチメント)を使う飲料、キシル(kishir/qishir)ないしギシル (qishir) という名称がそこから来たことが伺える…"bunn"が、元々は「豆」を意味する言葉だったのと同様に。

ただ、同じ殻の部分を使う飲み物でも、エチオピアのハラー(ハラーリ語)に見られる"hašar qahwa"とは若干呼び名が異なる点は気になるところだ。


この資料から、少なくとも13世紀末に、コーヒーがアデンに輸入される交易品ではなかったということは言えるだろう。

ただし、ここにリストアップされたものは、あくまで税関での取扱い品目であることには留意すべきであろう…ごく少量が持ち込まれるようなものについては対象外であった可能性は除外できない。

逆に、この時点でイエメンで栽培されてアデンから輸出されていた(から輸入品リストに入らない)可能性も考えられなくはないが…少なくとも1330年頃のイブン・バットゥータの記録を考えると、その可能性はかなり低そうだ。イブン・バットゥータザビードからウダイン(タイッズ)、ジーブラ(イッブ近郊)を経て、最終的にはアデンからエチオピアに向けて出港している。好奇心旺盛で目端の利くイブン・バットゥータのことだから、もし当時のイエメンでコーヒーが栽培され、ましてや輸出されていたのならば、彼がそのことを書き記さなかったとは考えにくいだろう。


アデンでの交易品に関する資料は、この他にもいくつかあるそうだ。例えばラスール朝が終期に差し掛かる15世紀初頭の取扱品目、180点を記載したアラビア語文献(『アデン港の書記官提要』)もあるそうなのだが……残念ながら内容が確認できていないので、今後の課題にしたい。

参考

コーヒーはなぜ消えた?

さて、ここまでの考察が正しいとするなら、イエメンにおいては11世紀初めに、薬用の「ブンカム」が存在していたが、13世紀末から14世紀前半には姿を消していたということになる。このことは、アブドゥ・ル=カーディルの記録に見られるゲマルディン(ザブハニ)のエピソードからも裏付けられるだろう。

15世紀に彼が初めてアデンでコーヒーを公認した際のエピソードで「彼が別の土地を旅していたとき、その地の者から薬として使う知識を得、アデンで体調を崩したときに思い出して使ってみた」というものだ。アブドゥ・ル=カーディルの文献については、後日改めて考察することにするが、このことは15世紀頃のアデン、あるいはイエメンでは、コーヒーを薬用として用いるという知識が一般に普及していなかったことを示唆している。


では、もしそうだとすれば、コーヒーはなぜ消えたのか?

可能性の一つは、当初イエメンでは結局、薬用以外の使用が展開しなかったことであろう。エチオピア西南部の部族においては、現在もコーヒーは薬用、食用としてだけでなく、移住や誕生、婚姻、埋葬などさまざまな生活儀礼に用いられており、彼らの生活と非常に密接に結びついている*5。しかしイエメンでエチオピア人奴隷たちが、こういった生活儀礼を執り行える状況にあったとは考えにくい。奴隷としての生活上の制約があっただけでなく、そもそも住んでいる環境自体が大きく異なるのだ。一度は故郷のエチオピアからわざわざ取り寄せたコーヒーであったとしても、結局はそうした生活の違いから儀式的に用いることは長続きしなかった可能性は考えられる。


また、薬として使用するにしても、エチオピア西南部の先住民社会よりも、医学がはるかに発展していたイスラム世界においては、コーヒー豆よりももっとはっきりとした効き目が出る薬があっただろうことは想像に難くない。イブン・スィーナーの『医学典範』における「ブンカム」の記述量は、他の薬剤に比べてもかなり少ない方であり、薬としての重要性が決して高くなかったことが伺える。おそらくは、時代が下るほどにその入手も困難となり、それがまた薬として用いる機会を減らしていったことで、最終的には薬としての利用も忘れられて行ったのではないだろうか。


もう一つの大きな可能性は、イエメンにおいてコーヒー豆の利用が「エチオピア由来の風習」であったことである。ナジャーフ朝の滅亡以降、アイユーブ朝ラスール朝など、下イエメン地域を統治した王朝は、いずれもイエメン以外の地域からやってきた支配者であった。彼らは、自分たちが支配者層であることの正統性を主張するため、イスラム神学、法学、科学、医学などのあらゆる学術分野で、自分たちが秀でた存在であることをアピールする必要があった -- それがザビード学術都市として発展した大きな理由でもある。このような背景を考えると、少なくともラスール朝の初期に、自分たちの奴隷であるエチオピア人たちの風習や文化を受け入れたとは、やはり考えにくい。


またこのことは、消失後に「復活」した「コーヒー飲用」がスーフィズムと結びついて発展したこととも関係するだろう。スーフィズムでは、しばしばスーフィー(修行者)が、聖職者でもあるウラマー(学者)たちを権威主義と批判し、対立姿勢を示すことが見られる。ラスール朝は、ザビードに多くのマドラサ(学校)を建て、学問を奨励して多くのウラマーを育てたが、彼らの多くは言わば「支配する側」に立つ人々であった。彼らに対して元々批判的な立場にあったスーフィーたちだからこそ、彼らが奴隷たちのものとして顧みなかった「エチオピア由来の風習」にも目を向ける余地があったのかもしれない。


後世、他のイスラム社会やヨーロッパなどの各地でコーヒー飲用が始まったときと同様、ザビードウラマーたちの間でも、コーヒーの飲用の是非を巡る論争があっただろうことは想像に難くない。しかしそれを初めて「合法」と認めたのは、ザビードウラマーたちではなく、なぜか学問や宗教とは疎遠だったはずのアデンの、しかもスーフィー出身だった学者、ゲマルディン(ザブハニ)だったのである。

参考

*1:この図書館は後にイブン・スィーナーを疎む者に火をつけられて焼失したと言われる。

*2:別の説によれば、その後レイでの政争に巻き込まれてイスファハーンに移住した後の、1025年頃に完成したとも言われる。

*3:『壮麗なるムザッファルの時代におけるイエメンの統治と法律そして諸慣習に関する知識の光』

*4:泉州から積出された陶磁器の記録も見られる

*5:福井勝義「コーヒーの文化的特性」 『茶の文化・第二部』淡交社(1981)