イエメンのお国事情

実は、ここにはイエメンの国家的な事情が絡んでいる。


イエメンでのコーヒー栽培がいつから始まったか、その正確な年代は不明だが、14-15世紀頃までには、紅海を挟んで対岸のエチオピアからコーヒーノキが持ち込まれて栽培が始まった。イエメンはその領土の西側、紅海に面した一帯の中央を、南北に山脈が縦断する独特の地形を持つ。コーヒー栽培は、このイエメンの西部の山脈地方で行われた。17-18世紀までにその生産はピークを迎え、コーヒーの一大産地の地位を確立していたことは明らかだ。

ところが1839年、イギリスが当時貿易で栄えていた港湾都市アデンを含めた南イエメンhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%B3)を占領し、自国の植民地にしてしまう。残った北イエメンhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%B3)は1849年にオスマン帝国支配下になった。

その後、北イエメンは1918年にイエメン王国として独立*1、1962年にクーデターでイエメン・アラブ共和国となる。南イエメンは、1967年に独立して南イエメン人民共和国(後にイエメン人民民主共和国に改名)になる。そして、1990年に南北イエメンが合併し、現在のイエメン共和国が生まれたのである。


この南北イエメンの分裂という社会情勢が、イエメンコーヒーの探索にも大きく影響した。1950年代にエチオピアでの探索が進められたのに続いて、イエメンコーヒーの探索も試みられたのだが、この頃まさに南北イエメンの政局が不安定化していたのである。

イエメンのコーヒー栽培は、おそらくイエメン西部に位置するホデイダの山地で始められ、そこで栽培されたコーヒーがイエメン西岸のモカから輸出されたと考えられているのだが、これらの地域はすべて北イエメンに属していた。この地域のコーヒーについては、FAO(国際連合食糧農業機関)が1975年頃に現地調査を行ったものの、サンプルを持ち帰ることができなかった。

一方南イエメンについては、1989年に調査が行われ、こちらからは22種類の種子サンプルが持ち帰られた。南イエメンのコーヒー栽培は、南北分裂前に北イエメンから広がっていったものだと考えられている。また南と北で栽培されているコーヒーには共通点が見られるものも多いことから、この南イエメンのコーヒーが、後に遺伝子解析などの研究に使用されている。
ただしイエメン全体のコーヒー産地から見ると、南イエメンに含まれる部分は南端のごくわずかな地帯であり、いわゆる「モカマタリ」を産出するバニ=マタル地方など、有名な産地のほとんどが北イエメンに含まれているのが現状だ。このため、研究は進められたものの、果たしてそれらのサンプルを「イエメン栽培種の代表」として扱っていいものかどうかには、やや疑問も残る*2


そして南北統一後も、イエメンの社会情勢は(ご存知のように)非常に不安定である。このような背景から、結局のところ、現在に至るまで北イエメン側のコーヒーノキの収集プロジェクトは進められていない。そもそもイエメンのコーヒー栽培も(善かれ悪しかれ)ほとんど近代化されることなく、旧態依然とした方法のままで、続けられているのが現状だ。

これに対する農業支援を目的として、USAID(米国国際開発庁)は"Moving Yemen Coffee Forward"という文書をまとめている。インターネットで、そのPDF版(http://pdf.usaid.gov/pdf_docs/PNADF516.pdf)も入手が可能だ。この文書にイエメンのコーヒー栽培の現状や今後の展望などがまとめられている。

*1:第一次世界大戦オスマン帝国が敗北したことによる

*2:ただし、ゲマルディンが活躍したのは南イエメンのアデンだし、ティピカの起源になったコーヒーもアデンから持ち出されたと考えられているので、南も無視できないのは確かである。