紳士的コーヒー
このように、コーヒーが世界に広まり出した18世紀、その伝播のほとんどは「盗人」たちの非紳士的行為によって行われていた。が、たった一つだけ例外がある。フランスである。当時フランスは、唯一「合法的に」イエメンからコーヒーノキを持ち出すことに成功した…それがブルボンだ。
まさに「ブルボン朝」の時代、フランス本国には、1714年にアムステルダムからパリ植物園に一本の若木が送られていたということは、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100501)述べた。そして、この木はルイ14世の大のお気に入りになった。
そして同年、ポンシャルトラン伯ルイ・フェリポーが王の代理として、ブルボン島に向かうフランス東インド会社の船数隻に宛てて、書状で指示を送っている…「イエメンでコーヒーノキを手に入れて、ブルボンに運べ」と。
持出禁止なのにそんな無茶な、と思いきや、これがあっさりと上手くいってしまう。というのは、実は当時のイエメンの領主、1712年に中耳炎をこじらせていた*1ところをフランス人に救われていて、大のフランスびいきだったからだ。そのおかげで、アンベール(Imbert)という名のフランス人商人が1715年、60本ものコーヒーノキを賜り、それをブルボン島へと運んでいった*2。
とはいえ、航海が過酷だった当時のこと。ブルボン島に辿り着いたコーヒーノキは20本だったという。これが、ブルボン島にあったフランス人宣教師たちの伝道所に分けて配られ、ブルボン島の地に植えられることになった。しかし、イエメンとは気候が大きく異なるブルボン島で根付いた苗木はたったの二本。さらにそのうちの一本も途中で枯れてしまったらしい。
それでも、1718年にはたった一本の生き残りと共に、100本余の苗木の姿が島にはあった。そして翌々年には7000本にまで殖やしていくことに成功。ブルボン島は一大コーヒー産地として発展を遂げていった……これこそがアラビカ二大品種のもう一つ、「ブルボン」の起源である。
その後、フランス本国でブルボン朝が滅亡し、島の名前がレユニオン島に変わっても、そしてレユニオン島自体のコーヒー栽培が廃れてしまっても、このときの「たった一本」の子孫は「ブルボン」という名前でブラジルにわたり、あるいは東アフリカにフランス人宣教師が伝え、「フレンチミッション(=フランス伝道所)ブルボン」という名で、ケニアやタンザニアで栽培される。その後ティピカとともに、これらの地域からさらに世界中に広まっていくのは周知の通り。
ティピカに比べると、ブルボン伝来の経緯に関する文献はきちんと残っていて、信憑性が高い印象を受ける。これはひとえに「紳士的に」、きちんとした手順を踏んで持ち出されたことで、「きちんとした記録」が残されたことに尽きると言っていいだろう。
こうして世界各地に広まったコーヒーノキによってイエメンによる独占は崩壊する。当然のごとく、やがて持出禁止も意味をなさなくなり、19世紀になってからも幾たびか、品種改良や新興産地での栽培のため、「合法的に」イエメンからコーヒーノキの種子や苗木が持ち出され移植されていったのである。