「飲むコーヒー」はじまりの仮説:利用の拡大と「コーヒーのスープ」

無政府状態となったザビードで、飲酒など明らかな破戒行為に手を染める者が増えていく中、さすがに酒を飲むことはためらわれても、当時まだ違法とははっきり決まっていなかったカートやコーヒーなどに手を伸ばした者は、そこそこの数がいただろう。イエメンでは現在、コーヒーの実を乾燥させて利用することが多い(=キシル/ギシル)が、収穫後に少し発酵させてやるとアルコールが出来ることは、昔からよく知られていたようだ*1。このため少しアルコールを含んだ、違法すれすれの嗜好品として利用するようになった人々もいたと考えられる。またスーフィーたちが勢いを付けて、その数が増えることで、カフワを利用する人の数も増えた。こうしてザビードでの需要の増加により、隣接するウサブの山中でコーヒーノキやカートの栽培も進められたと考えられる。


この頃ウサブ山には、ザビードから命からがら逃げてきた難民たちや、厳しい山中での修行を送るスーフィーダルヴィーシュ)が生活していた。標高が高く他の作物が育たないウサブ山で、彼らはひどい餓えに苦しめられる。そんな中で彼らはコーヒーの実を見つけて、それを口にした。

それはひょっとしたらナジャーフ朝の時代の誰かが植えたものが細々と生き残っていたものかもしれない。またひょっとしたら、本当はザビードの誰かが植えたコーヒーノキだったのかもしれない。しかし…「高潔なスーフィーが餓えに耐えきれず、教えに背いて、盗みを働くわけがないではないか!」 そんなことは「あってはならない」ことである。彼らが口にしたのは、誰のものでもない、ウサブ山にいつのまにか生えていたコーヒーノキであったし、また厳しい修行を送るスーフィーアッラーが授けた「奇跡の賜物」に間違いないのである!


……やがて彼らは、少しでも腹が膨れるように、そのまま食べるのではなくスープにして食べるようになった。また他の食べ物がないときに備えて、集められる時に集めて干し、時には軽く火を通して保存するようにもなったのかもしれない。

そして、ウサブ山で暮らすスーフィーたちは「コーヒーのスープ」にも眠気を払う力がある、すなわち「カフワ」になることに気付いた -- 「キシル」と「ブン」、二つの「コーヒー」の始まりである。


あるとき、ウサブ山のスーフィーたちの元に、モカの住民がやってきて彼らに混じって修行をするようになった。やがてスーフィーの弟子の一人が独立し、モカの住民たちとともに町へ戻って小さな安息所を作り、そこで夜の勤行を行うようになった…そこではウサブから持ち帰った「保存のきくカフワ」、キシルやブンのカフワが使われた。


またある時、ウサブ山のスーフィーの一人がファキールとなって放浪の旅に出た。彼はアデンの町に流れ着き、当地で有名な学者の元を訪ねる。その頃アデンには二人の高名な学者がいた。彼は二人に、自分がウサブ山から大事に持ってきていた「保存のきくカフワ」を作って差し出した。

このときアデンにいた一人の若い男が後に勉強を重ね、後年ターヒル朝が成立して復興を遂げたザビードで法学者となった。さらに学識を深め長老として尊敬を集めるようになった彼が90歳を超えたあるとき、人づてに「キシルやブンのカフワを最初に飲んでいたのは誰か」という質問を受ける…この質問の手紙を最初に送ったのがイブン・アブドゥル=ガッファールであり、彼は1530年頃に長老からの返事を一つの文書の中に書き残した。さらにその後、アブドゥル=カーディルがこの文書を読み、それを自身の著述『コーヒーの合法性の擁護』の中で、コーヒーの起源として紹介した……

長老はこう言った:私がアデンにいたとき、一人の敬虔なファキールがコーヒーを作って自分で飲んでいた。彼はそれを、アデンでも抜きん出て学識のあったシャイフ、「アフダル」ことムハンマド・ハドラミーと、神の知識に通じていることで名高いシャイフ、ムハンマド・ザブハーニーにも薦めた。二人の学者は人々の前でそれを飲むようになった*2

この、アデンでコーヒーを飲んだ学者の一人が「ムハンマド・ザブハーニー」…すなわち、アデンでコーヒーを公認した「ゲマルディン」こと、ジャマールッディーン・ザブハーニーだったのである。

*1:ド・サッシーの『アラブ文選』の訳文に"liqueur"という単語が見られるが、コーヒーに関してこの語が用いられているのは当該の一箇所のみで、他は「飲み物 "boisson"」になっているため、ここだけ区別して書かれているようである。本文中で、ここ以外に"liqueur"が用いられているのは「ワイン "vin"」の文脈だけである。

*2:ド・サッシー『コーヒーの合法性の擁護』より翻訳