無法化するザビード

ザビード無政府状態になったことは、同時に以下の三つのことをもたらしたと考えられる: (1)飲酒や賭け事など破戒的行為の横行、(2)ザビードから逃げ出す貧窮民の発生、(3)スーフィズムの台頭 である。


この当時の社会秩序を形成する上でイスラームの教義による統制力は大きく、社会の混乱はそのままイスラームによる法治の乱れも意味する。ザビードで台頭した元被支配者層のアビードたちを中心に、飲酒や賭け事などイスラムの戒律で禁じられた享楽に手を染める者たちが増えただろうことは想像に難くない。

またこの当時のザビードでは略奪等が相次ぎ、まともな商行為すら行うことができなかった、と記録されている。略奪により財産を失った者や、襲撃を恐れた者たちが着の身着のままでザビードから逃げ出したこともまた、想像に難くない。別の地に縁故がある者はそこを頼って行ったであろうが、行くあてもなくザビードの城壁の外の荒野で暮らす難民たちも多かったことだろう。

また権威主義的なウラマーの失墜は、彼らと対立*1する「反権威主義的」な宗教人たち、つまりスーフィーたちの勢力拡大に繋がっただろう。


ここにあげた三種類の人々、すなわち(1) ザビードの下級階層民(アビードなど)、(2) ザビードから逃げた難民、(3) スーフィーの間に明確な「垣根」を設けることはできないだろう。元々、社会的に弱い立場の者たちが、反権威主義的な宗教にすがることは珍しいことではない*2。その社会情勢から、スーフィズム特有の聖者信仰を通じて「現世利益」にすがろうとする者も多かっただろう。また厳しい修行生活を送るファキールダルヴィーシュの暮らしは、貧困層や下級階層の生活と共通点が多かった。ウラマーに不満を抱いたアビードが彼らを批判するスーフィーに傾倒したり、難民がファキールとなって托鉢で命を繋ごうとしたり、アビードや難民、スーフィーは重なり合った存在でもあり、また互いの交流を通じて影響を与え合っていったと考えられる。

*1:イスラム教における「対立」といえば、真っ先に上がるのはスンナ派シーア派の対立である。イエメンでもラスール朝などのスンナ派王朝と、ザイド派のようなシーア派王朝が激しい対立を繰り返した。ただしスーフィズムは、このスンナ派シーア派の対立とはあまり関係がない。スーフィズムは、むしろウラマーと対立的な立場であり、スンナ派シーア派の両派にスーフィーたちは存在した。シャーズィリーヤ教団はスンナ派に属する。ただし、厳しい修行を重視するダルヴィーシュやファキールの姿勢は、シーア派 -- というより山岳部族的な考え方にも通じるところがあったようだ。

*2:例えば、預言者ムハンマドの時代に最初にイスラム教の信者となった人々にも、奴隷身分の者は多かった。