ザビードの衰退

1442年、ラスール朝最後のスルタンが亡くなったことで、その後継者争いが始まった。これがザビードに与えた影響は甚大だったと言える。この年、タイッズで真っ先に後継者の名乗りを上げた王位請求者ムザッファルに対して、アビードたちの一部は王位請求者アフダルを独自に擁立した。


これは、それまで保たれていた、ザビードの学者(ウラマー)たちの権威の失墜を意味している。

ラスール朝は元々ペルシアからやってきた一族が興した王朝である。彼らは、イエメンに先住していた諸部族よりもイスラムの教えを深く理解していると主張し、それを諸部族に授ける「イスラム指導者」の立場に立つことによって、いわば「余所者」である自分たちの王権の正統性を確保していた。

ラスール朝ザビードでの学問を振興したのもそのためである。当時のイスラム社会は原則的には祭政一致であり、イスラムの教義に基づく法治がそのまま指導者による統治につながった。このため、人々が従うべき規範となる「イスラム法シャリーア)」を解釈するウラマーたち--特に「法学者」--が重要な意味を持っている。何らかの問題が生じたとき、それがイスラムの法に照らして適法なのか違法なのかが法学者たちの議論で争われ、最終的には彼らのリーダーである「ムフティー」が、正式な文書(ファトワー)を発行して裁定を下すことになる。

ザビードラスール朝随一の学術と宗教の都であり、そこには多くのウラマーたちが集まった。ラスール朝のスルタンがザビードウラマーたちを庇護する一方で、ウラマーがスルタンの正統性を担保し、施策などの合法性の判断を執り行う。いわば持ちつ持たれつの関係であったと言える。


1442年から始まったラスール家の後継者争いは、イエメンの各地で誰が後継者に相応しいかを巡る激しい対立を生んだ。ザビードもまた決して一枚岩とは言えず、官僚や民衆、ウラマーなど全ての階層で意見の対立を生んだことだろう。しかしその中で突出した動きを見せたのは、エチオピア奴隷を出自とする被支配者層たち、アビードであった。官僚やウラマーなどの支配者層が右往左往する間に、おそらくは圧倒的に数で勝った、彼ら下級階層の人々が台頭したのだと考えられる。

ただし彼らアビードもまた一枚岩ではなく、アフダルは彼を支持しない人々の手によってムザッファルに引き渡され、処刑された。しかしムザッファルと彼を後押しするターヒル家が、彼らに対する恩賞を惜しんだことから暴動を招き、略奪等が横行して、最終的にザビード無政府状態と化した。この状況下ではおそらく、それまでラスール朝の庇護下にあったウラマーたちの多くがザビードから逃げ出したと考えるのが自然だろう。