「飲むコーヒー」はじまりの仮説:コーヒーノキとカフワの始まり

カートや、コーヒーの実や種、葉などを嗜好品として利用する風習は、遅くとも15世紀初頭までにはエチオピアからイエメンへ本格的に伝来した。この利用を初期に牽引したのは恐らくザビードに暮らすアビードエチオピア起源のザビードの奴隷階級)たちだろう。社会的に低い身分の彼らにとって、それは日頃のストレスを和らげる、格好の「嗜好品」であった。また彼らにとって、「自分たちのルーツ」エチオピアに繋がるそれらを使うことには、ラスタファリズムに通じるものもあったはずだ。

彼らは、カートやコーヒーの葉から飲み物を作り、コーヒーの実(キシル)はそのまま食べたり料理に使ったりもした。またカートの葉や、コーヒーの実と種(ブン)を「噛んで」利用することも行われた*1


そして彼らと接点のあったザビードスーフィーたちに、この新しい嗜好品/飲み物を積極的に試す者が現れた。多くの神秘主義者にとって、「未知の薬物」を使うことで得られる、通常とは異なる精神状態の体験 -- いわゆる「トランス体験」は、「自分の内なる神に向き合い、合一する」行為と結びつくからだ。世界各地のスーフィーたちがいろいろなドラッグを試したように*2、イエメンのスーフィーたちはカートやコーヒーノキを試したのである。シャーズィリーヤ教団のアリー・イブン・ウマル・アッ=シャーズィリー(1418没)も、そうしたスーフィーの一人であった。エチオピアから来た新しい「ドラッグ」に眠気を取り去る力があることを見いだした彼は、これを夜間の勤行に使えると考え、その中でもカートやコーヒーの葉から作る飲み物を「カフワ」として仲間のスーフィーたちに紹介した。

これがエチオピアでも元々「カフワ」と呼ばれていたのか、あるいは別の名で呼ばれていたものを彼がそう呼び始めたのかはわからない。ただし「カフワ」というアラビア語の呼び名を付けたのは、それなりに学識のあるスーフィーだったことは確かだろう。この「カフワ」という呼び名は現在エチオピアのハラー地区やグラゲ地区でも用いられているが、ひょっとしたらそれは、1415年にイエメンからエチオピアに戻りアダル・スルタン国を興したワラシュマ家の子孫たちが、エチオピアに「逆輸入」した呼び名だったのかもしれない。もしそうであれば、1415年頃までにイエメンのスーフィーたちの間で「カフワ」が普及していた可能性もあるだろう*3


スーフィーたちが利用するためには、カフワが「飲み物」であった点が重要だったと思われる。上述のように、カートの葉やコーヒーの実や種には「噛んで」利用する方法もある。しかし、そのやり方で十分な覚醒作用を得ようと思ったら、一定時間噛みつづけて、口腔粘膜から有効成分(カチニンやカフェインなど)を吸収しなければならない*4スーフィーらが夜間行う勤行は「ズィクル」と呼ばれ、体を動かしながら、ひたすらアッラーの名を唱え続けるものだ。カートやコーヒーの実を噛んでたら、唱える口が止まってしまう。したがって、スーフィーたちの間では専ら、飲み物である「カフワ」が用いられたのであろう。

やがて彼らが夜中に集まって修行するときには、カフワが大きな壷に用意されて部屋の中に置かれるようになり、皆がそこから柄杓ですくって回し飲みするようになった -- 16世紀のイエメンで見られた典型的なスーフィーによる利用スタイルである。カフワを飲み、ひたすら神の名を唱えて、没我の境地に入ろうとするスーフィーの指導者を見た弟子達には、カフワが神に近づくための秘薬のように思われたことだろう。


こうして徐々にコーヒーやカフワの利用がイエメンで広まって行ったと思われる。しかしラスール朝時代のザビードにおいては、それらは身分の低いアビードが嗜むものであり、また権威ある学者(ウラマー)ではなく世俗のスーフィーたちが利用するものであって、まだ、あまり大っぴらに用いられるものではなかったのではないだろうか。

*1:この「噛んで使う」というのは、現代の我々にはあまり馴染みのない嗜好品の利用方法だが、世界的に見ると、キンマ(ビンロウジ)やコラなど多くの「噛む嗜好品」の例がある。イエメンやエチオピアのカートも、現代では専ら噛んで利用されている。タバコでも「噛みタバコ」が最も古い利用法の一つであると言われる。またコーヒーについても、エチオピア西南部の一部では噛んだり食べたりして利用しているし、東アフリカ(タンザニア)のハヤ族など、大湖地帯でのロブスタコーヒーの利用には、噛む方式のものが多い。

*2:このような薬物使用の例としては、カランダリー教団でのハッシシの利用などがあげられる。

*3:仮にイエメンから伝わったものだとしても、もっと遅い時代に…例えばアラビア半島に広まってから、エチオピアに伝えられた可能性ももちろん否定は出来ない。ただし、ハラー地区で用いられるハラリ語では、豆から作るものは「ブン・カフワ」、葉から作るものは「クティ・カフワ」と呼ばれているが、殻から作るものが「ハサール・カフワ」と呼ばれており、イエメンや他のアラビア半島で一般的な「キシル」の名称だけが用いられていないようだ。イエメンでキシルからカフワが作られるようになる前に「カフワ」の語が伝わったためかもしれない。

*4:実は、一般に口腔粘膜から薬物を吸収する方が、飲みこんで吸収するよりも、即効性や効力そのものは高いことが多い。口腔から吸収した薬剤はそのまま血流に乗って全身(脳を含む)に回りうるが、腸から吸収されたものは必ず一度、肝臓を通過して、そこで代謝を受けて一部分解されるためである(=初回通過効果)。その後のカートの利用が、噛むこと主体になったのはこのためかもしれない。