地図での説明から

話を進めるにあたって、まずはエチオピアの地理について、右の地図で解説しておきたい。ここから先、いろいろなエチオピアの地名が出てくるけど、これが結構ややこしい…おおまかな地方を指す名前、都市(町)の名前、近代のエチオピアになってからの行政区分による州の名前(これにも新旧がある)が入り乱れてるせいだ。また、現地の言葉を英語やフランス語にするときの表記ぶれの問題や、そこからさらに日本語にするときの表記ぶれの問題もあるのが、これまた事態をややこしくしている…例えば「ショア/ショワ/シェワ Shoa - Showa - Shewa」「アダル/アデル Adal - Adäl - Adel」などのように。


右の地図では、これからの歴史的な話をする上で出てくる主要な地名を示している。大まかな地方を指す名前を黒字で、都市の名前を赤で示した。また「アディスアベバ」「ゴンドール」などの新しい都市については、15-16世紀当時までには出てこない地名だが、位置関係を示すための参考として示している。またついでに、イェルガチェフ(イルガチェフ/イルガチェフェ)やジンマなど、コーヒーと関わりの深い地名も付記した。

キリスト教徒のホームグラウンド

現在のエチオピアの首都アディスアベバは、エチオピアのほぼ中央に位置する、1886年にメネリク2世が建設した新しい都市である。この場所を首都に選んだのはメネリク2世の妻であるタイトゥ皇妃だそうだが、平均標高2000mを超える、広大な「ショア(シェワ)高地」に位置している。このアディスアベバを中心とする高地一帯が、かつて「ショア(シェワ)」と呼ばれた重要な地域である。ここには元々、エチオピア先住民が暮らしていたが、12世紀にはイスラム国家(スルタン国)が成立し、さらに1270年、このショアを拠点として、ソロモン朝エチオピア帝国、すなわちアクスム王国の正統な後継者たるキリスト教国家が「復興」した。この流れを組む現在のエチオピアにとって、そういう意味で「特別な場所」である。このショアから北に向かって、アムハララスタ、そしてティグレに隣接する、かつての王国の首都アクスムへと続く高地がいわゆる「エチオピア北部」…この辺りが大体「キリスト教徒のホームグラウンド」と言えるだろう(下図ピンクの矢印)。アクスムに首都を構えていたアクスム王国は、9世紀初め頃から南下をはじめ、9世紀後半にはショアの北部にまで到達していた。

イスラム教徒のホームグラウンド

このショア高地の、東のふもとにはイファトという都市があった。ここから北東に、紅海を目指して向かうとゼイラに辿り着く。ゼイラとイファトの間は、平野の南側に位置するハラーの山地に沿った隊商路で繋がっており、ゼイラが「紅海の玄関口」、イファトが「ショア高地の玄関口」として、共に交易上重要な役割を担っていた。このイファトからゼイラにかけて広がる地方一帯が、アダルと呼ばれた。イファト、ゼイラを含むアダル地方一帯も、元々はエチオピア先住部族の土地であったが、9世紀頃からイスラム教徒であるアラビア商人が、ゼイラからこの隊商路に沿って内陸部に進出していき、途中の宿泊地として小さなイスラム共同体を作ったり、また先住民の暮らす町に定住したことで、徐々にイスラム教が浸透していった。やがてイスラムの商人らは、西南部の小さな町や、アムハラのキリスト教エチオピア帝国にまで到達し、それなりに市民権を得ていったようだ。そのうち、先住民の首長がイスラムに改宗するなどして、ところどころでスルタン国が生まれる。特にイファトとアダル(都市)には、後に強硬なスルタン国が生まれ、ソロモン朝エチオピア帝国と激しい戦争を繰り広げることになる。このアダル地方が、この当時は「イスラム教徒のホームグラウンド」だったと言っていいだろう(下図青の矢印)。

先住民の領域

ショアの西から南にかけて位置する領域は、キリスト教徒でもイスラム教徒でもない「先住民の領域」であった(下図グレーの円)。

ショアの西に位置する地方一帯はダモト(旧ダモト*1)と呼ばれ、先住民の女王*2が治める広い領土があった。ダモトの人々は、いわゆる「ペイガン pagan*3」だったと記録され、シャーマンの女王を首長とする自然崇拝(アニミズム)者だったと考えられているが、一説にはエチオピアユダヤ教徒ベタ・イスラエル、かつてはファラシャとも呼ばれた*4)であったとも言われる。

アムハラ、ショアへと南下してきたアクスム王国は、その領土をさらに広げようとした10世紀頃に、この女王が率いる部族と激しい武力衝突を起こし、最終的にキリスト教徒らは押し返された。逆に当時のアクスム王国の首都*5を女王らの軍勢が制圧したとも伝えられている。しかしその後、13世紀にショアでソロモン朝エチオピア帝国が復興し、14世紀初頭にはソロモン朝アムダ・セヨンI世がダモトに侵攻して、ダモトの先住民はちりぢりになった。アムダ・セヨンI世はその後、ショアの南に位置するハドヤの町を滅ぼし、さらには宿敵であるイファト・スルタン国を打ち負かすのであるが、この経緯は後日改めて詳述する。なお、さらに南に位置するカファについては、この頃の記録はほとんど見られない。


ショアの南東にはシダモと呼ばれる地方がある。シダモの人々は15世紀頃に、さらに南東のソマリア国境付近の高地を拠点とするオロモ族の侵攻(下図グレーの矢印)を受けて、「オロモ化(オロモ族への同化)」された。このシダモを拠点にしてバリ、ダワロと北進した -- だいたいこの辺り、ハラーの南あたりまでが、エチオピアの古い文献で「ガラ」との記載が見られ、オロモ族の領土だとみなされるようになっていたようだ。さらに16-17世紀には、北部のキリスト教徒やイスラム教徒の領土の両方に向けて、大規模なオロモ族の北侵が始まる。ただし本稿では、エチオピアのコーヒー黎明期として、オロモ侵攻以前の時期に絞って話をしたい…そうなるとシダモについても、この頃の記録はほとんど見られない。

*1:ここでいう「ダモト」は、旧ダモト(old Damot)と呼ばれる地方で、1995年までの行政区分でのイルバボル州の付近一帯を指す。元々、ダモトはアベイ川(青ナイル)の南方にあったが、16世紀末のオロモ族が侵攻の時に、人々がアベイ川の北部に移住した。そこが新ダモトと呼ばれる、旧ウォレガ州の一部である。

*2:「Banu Al Hamwiyyaの女王」と呼ばれる。"Banu"は「部族」を指し、イタリアの研究者コンチ・ロッシニによる「al-hamwiyyaは、本来al-damutaと読まれる」という説が有力視されており、ダモトの女王を指すと考えられている。また別の文献に"Gudit","Yodit"の名で現れる女王とも同一人物だと考えられている。

*3:アブラハム一神教」から見て、アニミズム多神教などの異教徒を指す総称で、しばしば侮蔑的な意味合いを持つことがある。

*4:ファラシャには「流浪者」などの意味があって侮蔑的な意味を持つという考えから、現在は「ベタ・イスラエル」という言葉が用いられる。

*5:この当時のアクスム王国の首都は"Kubar"(クバール)という記録があるが、その場所についてはよくわかってない。"Kubar"はアクスムの書き間違いという説もあるが、すでにアクスムより南に遷都していたという説もあり、アクスムとアンゴトの間、ハイク湖に近かかったとも言われる。またダモトの女王が攻め落としたのが、このKubarかアクスムだったかは不明であるが、おそらく南に移動していた首都と考える方が現実的だろう。