ババ・ブダンによる伝播

時は流れて17世紀。インド南部は、ヒンドゥー王朝であるヴィジャヤナガル王国(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%AB%E6%9C%9D)の支配下にあったが、1649年にスンニ派イスラム王朝であるビジャープル王国(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E7%8E%8B%E5%9B%BD)によって滅ぼされた。その後、1657年に即位したビジャープル王国のスルタン、アリ・アーディル・シャー2世と共に、一人のイスラムの行者がダダ・ハヤートの祠を訪れた。行者の名はサイード・シャー・ジャマルッディーン・マグリブ(Sayyed Shah Jamaluddin Maghribi)、またの名を「ババ・ブダン」と言う。彼こそが、後にコーヒーをインドにもたらしたと伝えられる人物である。


マグリブはイエメン出身で、やはりカランダールとして、放浪の果てにビジャープル王国に辿りついた。そこでアリ・アーディル・シャー2世に気に入られ、彼に師事することになる。彼に付き従って、インド南部を旅していたマグリブは、ダダ・ハヤートの祠に至り、この地に定住するとスルタンに申し出たのだ。スルタンは何とか引き止めようとしたが、マグリブの決心は固かった。おそらく同じようにアラビアからやってきて、当時もなお民衆に敬愛されていたイスラムの聖者、ダダ・ハヤートに感じ入るところが大きかったのだろう。マグリブはダダ・ハヤートの祠やそこに至る参道などを整備して、立派な聖堂として、改めて彼を奉ったのである*1。この作業には4年の歳月がかかったとも言われる。

マグリブは聖堂を整備するに際して「洞穴を通ってメッカに至っていたダダ・ハヤートから、祠の管理を命じられた」と称していたようだ。恐らくこのように説明することで、現地の人々に土着のダッタトレーヤー信仰も損ねることなく、スムーズに事が運ぶと考えられたからだろう。


聖堂を整えた後、マグリブは改めて自分の信仰を見直すため、メッカへの巡礼の旅に出た。メッカからの帰路、彼はメッカから南のイエメンに向かい、モカ港から海路、インド西海岸を目指すのである。このとき、彼はモカ港で7粒のコーヒーの種子を密かに入手し、自分の腹にくくりつけて、密かにインドに持ち帰ったと言われている。

彼は、祠の前にその7粒の種子を植えたが、そのうち成長して実を付けたのはたった一本だったと言われる。しかし、この一本に実った種子から、さらに新しい苗木が育ち、やがて祠のあるチッカマガルールから、マイソール地区、カルナカタ州全体へとコーヒー栽培は広まっていった。マグリブはその後、1713年(ヒジュラ歴1125年)に亡くなり、その遺骸もここに奉られた。これが、この聖堂が(元々はダダ・ハヤートの祠でありながら)「ババブダン廟」、この聖堂がある山が「ババブダン・ギリ*2」と呼ばれている所以にもなっている。


なお後の世になって、ダダ・ハヤートとマグリブは同一視されるようになったようだ。「ババ・ブダン」という名がどこから来たものかは定かではないが、メッカからコーヒーを持ち帰ったマグリブが「ババ・ブダン」と呼ばれ、メッカに至っていたダダ・ハヤートの再来として崇められたと言うことのようである。


上述したように、ババ・ブダンによるインドへのコーヒー栽培の伝播は、ある意味伝承めいた部分も多く、正確な年代などについてはよく判らないというのが正直なところだ。ただしコーヒーそのものは、遅くとも1616年までにはインドでも飲用されていたようだ。コーヒーノキの伝播は、上記のようにビジャープル王国のアリ・アーディル・シャー2世の時代だと考えれば、早くても1660年頃と考えてよいだろう。またその後、ビジャープル王国はムガル帝国アウラングゼーブによって、1686年に滅亡している。このことを併せて考えると、まぁ1670年という説は概ね妥当なあたりではないかと考察できる*3

*1:おそらくこの頃、この祠はヒンドゥー教の民による、ダッタトレーヤー信仰のための色合いを強めていたのだろうと考えられる。そう考えると、この再整備はヒンドゥー教で奉られていた祠を、イスラム教の聖堂に奉り直すものでもあったのだろう。

*2:「ギリ」は山、山の頂を指す語。

*3:なお、1676年にインドとペルシャを訪れたフランス人宝石商の記録で、これらの国でコーヒー栽培は行われていなかったというものがある。少なくとも、この年にはまだあまり広まってはいなかったのだろう。