「民衆のヒーロー」ダダ・ハヤート

ババブダンギリ聖堂は、イスラーム初期に、インドに初めてイスラム教を広めたとされる「ダダ・ハヤート Dada Hayat」を奉った場所であった。ダダ・ハヤートは本名、アブドゥル・アジーズ・マッキ(Abdul Aziz Makki、Hazrat Sheikh Abdul Azeez Mecci)。メッカの近郊ターイフに生まれたキリスト教徒であったが、預言者ムハンマドがメッカで布教を始めた7世紀初頭に彼の直弟子となり、イスラム教に改宗した。後のスーフィズムの起源とも言われる、"Ahl al-Suffa"と呼ばれるグループの一員で、ムハンマドが旅行や戦いに向かうときには、彼の旗を持って付き従っていたと言われている。


ダダ・ハヤートは、当時混乱していた南インドの情勢を憂いたムハンマドの命を受け、「カランダール Qalandar」と呼ばれる放浪のイスラム伝道師として、インドに赴いたと言われている。彼が辿り着いたのはカルナタカ州の山地にある洞穴であった。ここで彼は水を求めて神に祈りを捧げ、神はその祈りに応えて、地中から水がわき出したという。

そこにやってきたのがヒンドゥー教の僧侶(バラモン)である。実はこの洞穴は、ヒンドゥー教の信者が祠として使っていた場所でもあったのだ。奇跡を目の当たりにしたバラモンは、ダダ・ハヤートを「ダッタトレーヤー」(ヒンドゥー教の主神であるシヴァ、ビシュヌ、ブラフマーの三神が一つになった神)の生まれ変わりだと考えて彼を崇めた。こうして、ダダ・ハヤートはこの洞穴を本拠地にして布教活動を始めた。洞穴の前には多くの民衆が集まりイスラム教に改宗して、彼を熱狂的に支持した。


これを面白く思わなかったのが、当時南インドを支配していた、封建領主たち(http://en.wikipedia.org/wiki/Palaiyakkarar)であった。彼らは以前から民衆を弾圧しており、ダダ・ハヤートが赴いたそもそもの理由は、彼ら領主を諌めて、この地に平和をもたらせ*1というムハンマドの命令があったからだ。領主たちはダダ・ハヤートとその信者を殺害ないし追放しようとしたがその企みはことごとく失敗に終わる。しかし、その結果さらに被支配層である民衆の弾圧を強め、ときには領民たちを拷問にかけることすらあったという。ダダ・ハヤートの元には、こういった圧政から逃れて来た者たちがさらに集まっていった……ただし、そのすべてがイスラム教への改宗を行ったわけではない。伝統的なヒンドゥー教を捨てることに苦悩した者も多く混じっていた。しかしダダ・ハヤートは彼らの葛藤を理解し、改宗を強制する事なく、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒を問わず分け隔てなく接したと言う。ダダ・ハヤートのいちばんの目的は、民衆をイスラム教に改宗させることではなかったのだ。


こうして、ダダ・ハヤートは元々はイスラム教の聖者でありながら、ヒンドゥー教の被支配層にも崇められ、「圧政者と戦う民衆の味方」として英雄視されるようになったのである。ダダ・ハヤートがその後、どのような「人生」を送ったかについての記録は残されていない……伝説によると、ダダ・ハヤートはあるときを境に「聖地」である洞穴の中に入っていったと言われている。この洞穴の奥は中央アジアや、遠くアラビア半島にまでつながっていて、彼は洞穴を通って聖地メッカに戻っていったのだと伝えられた。現地では、ダダ・ハヤートは今でも生き続けており、民衆が窮地に陥ったときに再び現れ、人々を救うという伝説が残っているそうだ。

*1:これはイスラム教から見た、ヒンドゥー教におけるカースト制度への批判を意味するとも思われる。