東アフリカの品種
初期(〜19世紀末)
- 最初に東アフリカに広まったコーヒーは「フレンチミッション French Mission」と呼ばれる。
- フレンチミッションの起源は、フランス人宣教師(=French Mission)がタンザニアに持ち込んだ、レユニオン島由来のブルボンと、イエメン由来のモカの間に生まれた「新芽がブロンズ色のブルボン」である。
- 1877年、フランス人宣教師がレユニオン島からバガモヨに『ブルボン』を持ち込む*1。
- 1880年、フランス人宣教師がイエメンのアデンでコーヒーの種子を購入、バガモヨに伝え『モカ』の名で栽培*2。
- 1880年以降、栽培エリアの拡大。バガモヨの南西部にあるモロゴロやムホンダ、バガモヨ北部のウサンバラに広がる。
- 1885年、ドイツがドイツ領東アフリカ(現在のタンザニア)を統治下に。この頃には、ケニアのテイタ丘陵南部の村、ブラにまで栽培が広まる。
- 1888年、イギリスがイギリス領東アフリカ(現在のケニア)を統治下に。
- 1893年、スコットランド人宣教師ジョン・ペーターソン(John Paterson)がイエメンのアデンでコーヒーの種子を購入。キブウェジ*3で栽培を始める。
- 1900年頃、タンザニア側由来のコーヒーノキが、ケニア内陸部のナイロビに持ち込まれる。*4
- 1907年以降、ドイツ領東アフリカ統治下、ブコバ地方とモシ地方(キリマンジャロ)でのコーヒー栽培が本格化。
コーヒーノキは当初バガモヨに導入され、1880年頃にはレユニオン由来で新芽が緑色の『ブルボン』と、イエメン由来で新芽がブロンズ色の『モカ』の、両方の品種がその近隣で栽培されていた。
その後タンザニアやケニアに広まる過程では、ドイツの販売戦略の関係などから、ブルボンよりブランドイメージがあって高く取引できる『モカ』が優先されていく「はずだった」*5。しかし実際に広まっていったものは、新芽の色こそブロンズだが、それ以外の特徴はブルボンと同一、つまり「新芽がブロンズ色のブルボン」だったのだ。
コーヒーノキがブルボンかモカかを見分ける手がかりは少ないため、この当時、現地では「新芽がブロンズ色=モカ」という簡易な同定を行っていたのだろう。しかし導入初期の段階ですでに両者の交雑が起こり、新芽がブロンズ色で「モカ」と見なされていた植物の中には、実は新芽の色だけがブロンズになったブルボン*6も混じっていたと考えられる。一般的なイエメンモカと比べるとブルボンの方が収量が高いため、栽培の過程で、この「新芽がブロンズ色のブルボン」が、「収量の多いモカ」と見なされて選抜され『モカ』として広められていったのだろう。
その後ナイロビに、スコット人宣教師がイエメンの『モカ』を、フランス人宣教師がタンザニア側の「新芽がブロンズ色のブルボン」をそれぞれ持ち込んだ。この両者を区別するために、前者は「スコティッシュミッション Scottish Mission」、後者は「フレンチミッション」と呼ばれるようになった。その後、「フレンチミッション」の名前は「フランス人宣教師がバガモヨに持ち込んだ、ブルボン由来の品種」のことも指すようになり、ナイロビへの導入以前に東アフリカに広まっていた「新芽がブロンズ色のブルボン」のことを指す名称となった。一方、スコティッシュミッションは途中からあまり栽培されなくなったらしく、この名は現在ほとんど残っていないようだ。
中期(〜1930年頃)
- スコット研を通じて(おなじイギリス領の)インドから耐さび病品種「ケント Kent」が導入され、東アフリカでのさび病対策で広まった。
- 1930年頃には種苗コレクションが充実。エチオピア野生種なども加えられ、各国の種苗コレクション作成にも多大に貢献した。
東アフリカ初の本格的なコーヒー研究所となる「スコット研究所」は1903年に設立された。その活動の成果が現れるのは、第一次大戦が終結し、タンガニイカがイギリス領になった1920年代以降である。初期の貢献としては、耐さび病品種「ケント」を東アフリカに持ち込んだことが挙げられるだろう。
コーヒーさび病は、近代化以前の1861年にビクトリア湖周辺で最初に発見されてはいるが、実際に東アフリカを襲ったのは1910年になってからである。これは19世紀に東南アジアで発生したものがマダガスカルを経て到達したと考えられている。
以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100517/)紹介したように、この頃、東南アジアのアラビカ栽培はさび病で壊滅的被害を受け、ロブスタへの転作が進んでいた。後の中南米での第二次パンデミックのときには、ハイブリド・デ・ティモールがすでに発見されていたが、この頃はまだ見つかっていない、ちょうどその中間の時期である。
この頃、耐さび病の開発をつづけ、さび病と戦いつづけていた国はいくつかある。その国の背後から支援していた国の一つがイギリスなのだ。たまに「スリランカ(セイロン)がコーヒーさび病にやられたため、イギリスはコーヒーから『紅茶の国』になった」という人がいるけど、実はそれは正しいとは言えない。
確かにセイロンでのコーヒー栽培はなくなったし、イギリス本国での紅茶のシェアも上がった。けど、イギリス統治下にあったインドと東アフリカではコーヒー栽培が続けられたし、これらの国には研究所(今回話題にしているスコット研究所もその一つ)が置かれ、さまざまな品種の開発が続けられていたのだ。
「ケント Kent」は、イギリス統治下のインドでの研究から、さび病に対する耐性を持つものとして見つかった。1911年にケント氏の農園で見つかったことから、この名がある。ケントは、インド・マイソール地方に広まっていた、おそらくはティピカと起源が同じものが、突然変異して耐さび病性を獲得したものだと考えられている。1920年頃にはその特徴から注目されたが、その耐さび病性は不完全で、その後東南アジアで広まった新型さび病には無効であった。
しかし東アフリカでは、当時他の選択肢が少なかったという状況も相まって、インドからスコット研究所にケントが送られた。幸いにも、流行したさび病のタイプや栽培地の標高の高さ、東アフリカの気候、バナナなどをシェードツリーとして栽培する方法など様々な要因から、東アフリカでは、ケントでも「それなりの」効果を発揮した。このため、それまで「フレンチミッション」主流であった、イギリス統治下のケニア・タンザニアに、インドの「ケント」が耐さび病品種として広まっていったのである。
その後、スコット研究所はケニアやタンザニアなど東アフリカ各地の農園で栽培されているコーヒーノキを蒐集し、優良品種の選別を始めた。同時に、世界中から様々な品種を入手し、1930年頃から世界に先駆けてエチオピア野生種の蒐集も初めている。ジャマイカで栽培されていたティピカもこの頃までに導入され、「ブルーマウンテンBlue mountain」という品種名で東アフリカで栽培されるようになった。
また、この頃にはタンザニアやウガンダでもコーヒー研究所が設立され、これらの地域との連携を取りながら、東アフリカの品種改良が進められていった。
現代まで(1930年頃〜現在)
- 1930年代から、ケニアでの選別と品種改良が進む。風土に合った高品質の品種(SL-28、SL-34)、さび病やCBD(Coffee Berry Disease, コーヒー炭疽病)に対応する耐乾・耐病品種(K7、ルイル-11)など、新しい品種が輩出されて、主要品種になった。
- 1960年代から、タンザニアでの選別と品種改良が進む。N39、KP426などが見いだされ、キリマンジャロでの主要品種になった。
- ケニア・タンザニアは現在も品種改良に積極的である。
東アフリカでのコーヒー栽培には、さび病以外にも、他の地域には見られない「難敵」がいくつか存在した。一つは乾燥した気候、もう一つはアフリカ特有の病虫害だ。
東アフリカは全体的に、年間降水量が少ない乾燥した気候である。雨季と乾季に分かれており、乾季にはひどい干ばつに見舞われることもある。
実は、アラビカ種はロブスタに比べると、元々は乾燥に対して強い。アラビカの根(root system, 根系)には横に広がる部分と、縦に伸びる部分がある。この縦に伸びる部分が比較的地下の深くまで到達して、地下水を吸い上げることが可能だ。このため縦に深く伸びる根系が発達しないロブスタより乾燥に強いのだ。
しかし東アフリカの乾燥した気候は、アラビカにとってもあまり適した環境とは言えない。タンザニアでは、キリマンジャロの標高の高い地帯など降雨の多い地域での栽培が主流となったが、ケニアでの栽培が計画されたナイロビ近郊では、よりこの問題は切実であった。
病虫害もまた乾燥と並んでアフリカのコーヒー栽培の障害であるが、中でも特に被害が大きいものが二つある。一つは上述したコーヒーさび病、もう一つは"CBD"、"Coffee berry disease"と呼ばれる果実の病変だ。日本語では「コーヒー炭疽病」と呼ばれることもあるが、あまり馴染みがない言葉なので、以下"CBD"と表記する。
CBDはColletotrichum coffeanumと呼ばれるカビの仲間*7によって起きる病気である。成長中の実の表面に、最初はスポット状に黒い病変が生じ、やがてそれが実全体に広がって、実が落ちてしまう。アラビカにのみ発生する病気だが、その被害は非常に大きく、過去には収穫量が例年の2割にまで減ってしまった事例がある。1922年に東アフリカで最初に報告され、その後、カメルーンなどアフリカ各地で発生している。現在までのところアフリカ大陸以外での発生は報告されていない、アフリカ固有の植物疫病である。
ケニア
東アフリカの中でも、ケニアのコーヒー品種を理解する上では「耐乾性」「耐さび病」「耐CBD」の3つがキーワードになる。
「K7」は、ナイロビの北東にあたる、ビクトリア湖北西岸の町ムホロニ(Muhoroni)のレゲテ農園(Legetet Estate)で見つかった、ケニアの品種である。フレンチミッションに由来する品種だとも言われているが、ケントと同じ耐さび病性の遺伝子を持っているのが特徴である。またCBDに対しても部分的な耐性を示し、さらには耐乾性も持つ。
新芽の色はブロンズで、葉はやや細い。若い側枝が横に広がる傾向が強いのが特徴。古い枝は垂れ下がり気味。低地での栽培にも適合するが、後述のSL-28などに比べると品質は若干劣るとされる。
「SL-28」はケニアのコーヒーの中で最も高品質と言われる品種の一つである。1931年にA.D. Trenchがタンザニアに趣いた際、タンガニイカ地方の北部で採取した耐乾性のフレンチミッション(Tanganyika DR cultivar. DRはDrought Resistantの略)を起源とすると言われている。1935年にスコット研究所で選抜された。
"SL"はScott Laboratories、すなわちスコット研究所の頭文字で、ここで集めた種苗コレクションの中から選抜した品種(Scott Laboratories selection)に付けられる。"28"は研究所で用いられたシリアルナンバーである。"SL-xx"の名の品種群は「SLシリーズ」とも呼ばれている*8。
中〜高地に適合した耐乾性の品種であるが、耐病性は持たない。大粒で揃った豆*9であり、その優れた品質から現在でも好んで栽培されている品種である。
「SL-34」もケニアのSLシリーズの一つである。スコット研究所のあったカベテ地区のロレショ農園(Loresho Estate)で蒐集されたフレンチミッションから、1935年に選抜された。
SL-28よりも収量が多く、また標高が高く雨量の多いエリアでも栽培が可能であるという利点がある。その品質はSL-28と同様に高く、大粒であるが、やはり耐病性は持たない。新芽はほとんどが濃いブロンズだが、緑色のものが一部混じるという特徴がある。また、K7と同様に枝が横に広がる傾向がある。
ケニアの耐病品種として、最も特色があるのが「ルイル11 Ruiru 11*10」だ。上述の品種はいずれもイギリス統治時代に作出されてきたが、ルイル11はイギリスからの独立後の1985年に輩出された「新しい品種」である。
これまでケニアでの品種開発は、基本的には栽培した中から有望なものを選んでいくという「選抜」で行われていたのに対し、ルイル11は目的の性質を持った品種を作り出すために交配を行った上で選抜した「交配種」である。この点でも「新しい」品種だと言えるだろう。スコット研究所ではなく、ルイル地区近郊のジャカランダ農園に「新しく」設立されたCRS(Coffee Research Station、後のCRF)で行われたことから、「ルイル」の名が付けられている。
ルイル11の交配プログラムは非常に複雑である。耐さび病性と耐CBD性のため、(1)耐CBD性を持つ「ルメ・スダン Rume Sudan」と呼ばれるスーダン南部に自生する*11野生種のアラビカ、(2)耐さび病、耐CBD性を持つティモール(ハイブリド・デ・ティモール)、(3)部分的耐さび病、耐CBD性を持つK7(上述)、の三種交配を行い、さらにそれを(4)SL-28、(5)SL-34と戻し交配した上、(6)矮性で耐さび病性を持つカティモール、を掛け合わせている。これらの交配は繰り返し行われ、かつ母方と父方を固定した一方向交配が行われた*12。その結果として生まれたのが、このルイル11だというわけだ。
ルイル11は、耐乾性、耐さび病性、耐CBD性に加えて、矮性、高収量、早熟という特性を兼ね備えた品種である。また、耐病性を持つということは、農薬の使用が低減できるということでもあるため、その生産コストは従来の品種の30%減になると言われる。しかも品質も従来のものと遜色ない…と、ケニアのCRFは主張している。が、しかし品質に関しては生産側と消費国側とで評価が分かれているのが現状である。
少なくともティモールやカティモール、ルメ・スダンと比べると、カップクオリティが高い、という点には双方に異論はないようである。また(古いティピカ系でもある)ケントやK7と比べても差はない、とCRFの研究者らは評価している。SL-28と比較すると研究者らもさすがに評価点を若干、低く付けていたが、最近は栽培環境による影響の方がはるかに大きい、と彼らは主張している。その一方、消費国側ではルイル11はあまり高く評価されてはいない。この「SL-28ほどではない」という評価から生産が伸びず、このことがさらに「結局は広まってない」ということからさらに評価が落ちる、という悪循環に陥っている、というのが現状のようだ。
率直に言うと、どちらの評価も客観性を欠いている可能性は高い。CRFにとって、ルイル11は「初めて自分たちの手で作り出した」我が子のような品種である以上、品質面でも高い評価を下してる可能性はある*13。一方で、消費国側でも(日本もそうだが)「昔ながらの品種の方が高品質だ」「耐病性の品種はマズい」という評価が、実際のカップテスト抜きでまかり通っているのが現状*14なので、まぁ「どっちもどっち」ではないかと思うのだが。
タンザニア
タンザニアでのコーヒー品種の研究は、イギリス統治下の1935年にキリマンジャロに設立された、リャムングコーヒー研究所(Lyamungu Coffee Research Station)で行われた。タンザニア各地の農園からサンプルが採取され、優良な品種が選抜された。その成果は、1950年代以降に徐々に実を結び、1960年代にはいくつかの品種(N39、H66、KP162、KP423)が輩出された。このうちN39とKP423は、現在タンザニアで「伝統的品種」として栽培されている。
「N39」は、フレンチミッションの流れを組むブルボン系の品種である。耐乾性があるが、さび病やCBDには非常に弱い。コーヒー豆の収量やサイズは平均的だが、その品質は優れて高いという*15。
「KP423」は、ケニアから広まったケントに由来する品種である。耐乾性があるが、N39ほどではないもののさび病やCBDには弱い。成長が早く、一つの節に多くの実を付けるため、収量はN39より高く、その品質も高く評価されている。
その後、1993年にはタンザニアコーヒー委員会(Coffee Board of Tanzania)が設立され、リャムングコーヒー研究所は2000年にタンザニアコーヒー研究所(Tanzania Coffee Research Institute, TaCRI)となる。TaCRIではN39やKP423を元にした耐病性ハイブリッド品種や、カティモール系との交配による矮性品種の交配を熱心に行っている。
2003年には、N39に由来する品種7種(N39-1〜N39-7)とKP423由来の品種3種(KP423-1〜KP423-3)が発表されている。これらは同時期から開発中の矮性品種(compact variety trial, CVT)との対比から、第二世代高樹高品種(second generation tall variety, SGTV)とも呼ばれる。それぞれの品種は、選抜時の番号(SC, selection)で呼ばれることもある。
- N39-1 (SC 4)、N39-2 (SC 5)、N39-3 (SC 8)、N39-4 (SC 12)、N39-5 (SC 3)、N39-6 (SC 9)、N39-7 (SC 11)
- KP423-1 (SC 10)、KP423-2 (SC 13)、KP423-3 (SC 14)
これらはN39またはKP423に、ルメスダンとティモールを交配して耐病性を獲得させたものである。同じ「N39-xx」という名前でも、新芽の色(緑〜ブロンズ)、実の形状(円形、楕円形、角形)などの特徴はそれぞれ異なり、親株であるN39とも異なる点には注意が必要である。
この他、これらの品種を父系、ヴァリエダ・コロンビアを母系として交配させた矮性品種や、組織培養技術によって作成した品種(tissue culture selection, TSC)など、さまざまな品種が現在もタンザニアで開発されている。
なおブコバ地方では、伝統的なハヤコーヒーと同じロブスタの栽培が再び主流になっている。
ケニア・タンザニア以外の品種
1904年頃、当時ドイツ領東アフリカの一部であったルワンダのミビリジ地区(キブ湖南岸のチャンググ地区にある高地)に、ドイツ人宣教師が、グアテマラからブルボンを持ち込んでいる。これは「ミビリジ Mibirizi」と呼ばれ、現在も、ルワンダやブルンジで高品質な品種として栽培されている。同じく、20世紀初頭に、ケニアのブルボン由来の「ジャクソン Jackson」や、プエルトリコのブルボン由来の「ブルボン・マヤグエス Boubon Mayaguez」などがもたらされたと言われる。
第一次世界大戦後にルワンダとブルンジは「ルアンダ=ウルンディ」としてベルギー領となるが、1930年代以降にルワンダのルボナ(Rubona)やジンバブエのチピンガ(Chipinga、現在のチピンゲ Chipinge)にコーヒー研究所が設立され、これら中央アフリカの品種が集められている。
*1:1863年に、聖霊修道会(Spiritans, Holy Ghost Father)のアントワーヌ・オルネ神父(Father Antoine Horner、アントイン・ホーナー)が、初めてバガモヨで布教活動を始めている。この神父は1868年から1877年までザンジバルの修道長を勤めており、1877年に持ち込んだものと考えられる。
*2:文献では'Baur'という名の神父、とのみ記載されているが、恐らくはこの年にアントイン・ホーナーの後任となった、エチエンヌ・バウー神父(Father Etienne Baur、エドモンド・マーチン・バウー)だと思われる。
*3:モンバサとナイロビのちょうど中間に位置する。テイタ丘陵ブラ村の北側。
*4:正確な経緯や年代は不明だが、当時モロゴロにいたエチエンヌ・バウー神父によると、アルザス地方出身の修道士、ソラヌス・ジッパー(Brother Solanus Zipper)がキリマンジャロのコーヒーを1899年にブラに導入し、さらにそこで生じた変異株を1901年にナイロビのセントオースチン教区にもたらした、という。ただし、上述のようにブラでは既にコーヒー栽培が始まっていた可能性が高く、この記載の信憑性が確かどうかには疑問もある。
*5:実際、1907年頃にブコバに『モカ』と称して持ち込まれたものも、実態は「新芽がブロンズ色のブルボン」であった。
*6:優性のBr遺伝子を受け継いだもの。
*7:Colletotrichum属は「炭疽病菌」と呼ばれる不完全菌類の一グループ。他に、イチゴ炭疽病菌Colletotrichum acutatumなどが有名。
*8:SLシリーズでは数字が異なれば、その元になったコーヒーノキも異なる。つまり数字が違うもの同士は、起源が異なる「全くの別もの」である。
*9:いわゆるAAグレードが80%で、他の品種と比べて最もその割合が高い。
*10:ルイル・イレブンと読むが、11番目の品種というわけではない。二桁の数字のうち、最初の"1"は一方向交配によって作成された品種であることを指し、二つ目の"1"がリリースされた順番を示している。つまりこれがルイル(にあるCRF)からリリースされた最初の品種である。
*11:アラビカ種の自生域は一般に「エチオピア南西部」と言われるが、そこに隣接するスーダン南東部の一部も自生域に含まれる
*12:現在も、ルイル11の種苗を作る場合には、この交配プログラムを維持して形質を安定させるため、手作業で受粉を行っているそうだ。
*13:あくまで個人的な判断だが、ケニアの研究者による評価論文は他の生産国と比べたら科学的手法に則っているので、かなり誠実で「マシな部類」だとは思ってる。例えば、どんな品種でも「excellent quality」としか書かないような国だってあるので。
*14:同じ農園、同じ条件で栽培したものなら違いに気付く者も出るだろうが、一般に流通しているレベルのものの中から無作為に取り出し、ブラインドでカップテストしたら、意外と気付かないんじゃないか、と思う。
*15:ただしタンザニアでの評価で。正直言うと、近年のタンザニアの研究所が出してる品種の評価では、リリースしてるどの品種も、カップクオリティは5段階評価の5を付けてるので、そのまま鵜呑みにするわけには出来ない部分がある。ただフレンチミッションブルボンに対する他国での評価から見て、恐らく元々のN39が高品質である、というのは妥当だろう。