ケニアのコーヒー栽培

ドイツ領からイギリス領へと変遷し、なおかつ地域的な違いが大きいタンザニアに比べると、ケニアにおけるコーヒー栽培の流れは比較的シンプルである。


フランス宣教師が1877年にタンザニアの港町、バガモヨに伝えたコーヒーノキは、タンザニア各地へ広まっていったが、このとき、現在ケニアに含まれている地域にも一部広まっていた。1885年頃に、タンザニアとの国境に近いテイタ丘陵南部のブラという村で栽培されていたのが、ケニア国内での最初のコーヒー栽培だと言われている。ただし、これはあくまで小規模なものに過ぎなかった。


本格的なコーヒー栽培が始まったのは、ケニアイギリス領東アフリカとしてイギリスの植民地になった1888年以降である。

1893年には、スコットランド宣教師がイエメンのアデンでコーヒーの種子を購入して持ち込んだ。また、1900年頃にはタンザニア側からナイロビにコーヒーノキが送られている。これらのコーヒーノキは、ナイロビ北部のキアンブ、ルイル、チカなどの地域を中心に栽培され、海岸にあるモンバサ*1から輸出されていた。第一次世界大戦後に、ドイツ領であったタンガニイカを植民地化した後は、モシ州(キリマンジャロ)などのコーヒーも、モンバサに集められ輸出された*2


ケニアでは、イギリス領東アフリカであった時代から本格的なコーヒー栽培の研究が行われていた。1903年には、カベテ地区に「スコット研究所 Scott Laboratories」(現在のNARL、National Agricultural Research Laboratories、国立農業研究所)が設立され、有力な品種をいくつも生み出した。1944年には、ルイル近郊のジャカランダ農園に「CRS、Coffee Research Station、コーヒー研究所」が設立され、そこがコーヒー研究の中心になる。1963年にケニアがイギリスからの独立を果たし、翌1964年に共和制に移行すると、CRSは会社法によって法人化されて「CRF、Coffee Research Foundation、コーヒー研究財団」と名称を変え、ケニアコーヒー委員会(Coffee Board of Kenya)の管理下で運営されるようになった。

*1:1905年に首都がナイロビに移転するまでは、ここがイギリス領東アフリカの首都であった。

*2:おそらくはこれが、日本でのケニアコーヒーの知名度が現在でも低い理由の一つだろう。日本はモンバサから輸出されるコーヒーのうち「キリマンジャロ」にのみ強い関心を示した。しかし世界的に見ると、ケニア産の方を高く評価している者も多い。ブランドイメージ恐るべし。