東アフリカへの導入

東アフリカの本格的な探索は、バートン卿とスピークの時代、1800年代中頃になって始まったものである。それ以前は、東アフリカの海岸部のみがヨーロッパ人の知りうる「東アフリカ」であった。


はじめて東アフリカに到達したヨーロッパ人は、かのポルトガル人船長、ヴァスコ・ダ・ガマである。1497年にリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマは、アフリカ南端の喜望峰を通過して、東アフリカのモザンビークに到達、そこからインド・カルカッタへの航路を開拓した。その帰路、1499年にタンザニアの東に浮かぶ小島、ザンジバルに立ち寄っている。この航路の開拓によって、東アフリカ海岸部へのポルトガル人の入植が始まった。しかし17世紀になると、オマーンによってポルトガル人は追い出され、東アフリカ海岸部はいわゆる「オマーン海洋帝国」の勢力下に置かれた。


オマーンのアラブ商人たちはザンジバルを拠点に、アフリカ大陸からの象牙奴隷貿易を行った。1832年にはオマーンのスルタン、サイード大王がザンジバルに遷都して、東アフリカ支配を強固なものとし、オマーンは全盛期を迎える。しかし1856年にサイード大王が死去すると、国土はオマーンザンジバルに分割され、1861年にはザンジバル・スルタン国が独立した。バートン卿やスピークによる探検がなされたのはちょうどこの頃である。サイード大王の死去と、帆船から蒸気船の時代への移行によって、オマーン海洋帝国による東アフリカ支配は揺らいだ。東アフリカは依然としてザンジバル・スルタン国の実質的な統治下にあったが、イギリスをはじめとするヨーロッパの国々もこの地域に進出していった。


このような情勢の中、1877年に、初めてアラビカ種のコーヒーノキが東アフリカにもたらされた。海峡を挟んでザンジバルと面するタンザニアの港町、バガモヨに、フランス宣教師がレユニオン島からコーヒーノキを運び*1、その栽培を始めた。やがて、このコーヒーノキは南東部のモロゴロや、北東部のウザンバラ山の東部に広まり、これらの地域で栽培されるようになった。さらに1880年になって、バガモヨにはイエメン(アデン)で新たに購入されたコーヒーの種子も持ち込まれた。

レユニオン島から持ち込まれていたものは新芽が緑色であり「ブルボン」、イエメンから新たに持ち込まれたものは新芽がブロンズ色で「モカ」という名前で呼ばれていたようだ。


1880年代半ばになると、ヨーロッパによる東アフリカ進出が本格化する。1884年ドイツ帝国は人道的見地からの奴隷貿易の廃止を口実として、アフリカ大陸先住民の族長たちと「ザンジバルによる支配を逃れるため、ドイツに保護を申し込む」旨の契約を結んだ。さらに1885年のベルリン会議において、列強諸国による「アフリカ分割」の原則を確立させると、これに基づいて東アフリカ大陸部を「解放」するべく、当地への進出を始めた。


ザンジバルは当然これに抗議したが、当時のドイツ宰相ビスマルクが派遣した5隻の戦艦が、スルタンの宮殿に砲口を向けて威圧した。武力では勝ち目がないザンジバルはイギリスに支援を求めたが、イギリスはこれを無視し、ドイツ、フランスとの間で東アフリカの領有について協議を行った。

その結果、1886年に(1)内陸部のうち現在のケニアにあたる地域はイギリス領、(2)現在のタンザニアにあたる地域はドイツ領、(3)ザンジバルの領土はザンジバル島周辺の島々および内陸部のうち沿岸から16km(10マイル)までの部分、(4)コモロ諸島マダガスカル島とアフリカ大陸の間にある島々)はフランス領とする、という形でそれぞれの境界線が定められたのである。ザンジバル不本意ながらも列強の武力の前に従わざるを得なかった。


このときの取り決めにより、1886年にドイツが現在のタンザニアを「ドイツ領東アフリカ」として、1888年にはイギリスが現在のケニアを「イギリス領東アフリカ」として、それぞれ統治下に置いた。なお、ザンジバルは1890年にイギリスによって保護領として宣言され、1896年には「史上最短、40分間の戦争」イギリス・ザンジバル戦争での敗北で、完全にイギリスの実質的支配下に置かれることになった。ともあれ、この頃に始まるドイツとイギリスによる植民地支配が、後の東アフリカでのコーヒー栽培に大きくつながっていく。

*1:1863年、アントイン・ホーナー神父(Father Antoine Horner)率いる聖霊修道会(Spiritans, Holy Ghost Fathers)の伝道団が初めてバガモヨを訪れた。当時のヨーロッパ宣教師は、名目上はスルタンの保護下で活動を許されて布教を行っていたが、実態としては入植を目的にした者が多かったと言われる。