怪しげな仮説

以上のような当時のアデンの社会背景を踏まえて、今回も「怪しげな仮説」を唱えてみよう。


アッ=ナースィル・アフマドがアデンに圧力をかけたのが1420-24年頃……ザブハーニーが1400年前後の生まれだとしたら20-24歳、まさに「ザブハーニーの若い頃」の出来事だと言える。ザブハーニーがこのとき既にアデンにいたのかどうか、また学校で学んでいたのか、ウラマーとして独り立ちしていたのか、それらに関する史料はない。しかし、もしザブハーニーがこの頃のアデンでウラマーとして活動を始めていたのならば、彼が「暴君」と商人達の間のトラブルに巻き込まれた可能性は十分考えられるだろう。

彼は「若い頃、真面目に勉強し」た、イスラームの法の知識に詳しい人物であったから、結果としてしばしばスルタンや役人たちに不利な判決を下し、彼らに疎まれる側であった可能性は高い。このことは彼が後にアデンに戻って暮らし、著名な学者として人々の尊敬を集めていたことからも伺える。もし彼がスルタンのご機嫌取りばかりするような人物であったら、むしろアッ=ナースィル・アフマドの死後にアデンに居続けることの方が難しかっただろう。

スルタンによるアデン商人への圧力は次第に増し、それと同時にウラマーたちに対する嫌がらせも増え、ザブハーニーが身の危険を感じるほどになっていった。そこである日、ザブハーニーは一時的にアデンを離れることを決意する。同じようにアデンから逃げ出すところだった交易商の一人に頼み、その船に同乗させてもらった…その船が向かった先が、当時アデンと交易していた海の対岸にあるバール・アル=アジャムの港のどこかであった。


アデンから逃れてきたザブハーニーは、ほとぼりが冷めるまでそこで暮らすことになった…すなわち「アデンを去り、『アジャムの地』に赴き、しばらくそこに滞在しなければならなくなった」のである。そして彼はそこで、現地の人がコーヒーを「利用」するのを目撃する。

ただし、このとき彼が目撃したのは「飲み物としてのコーヒー」ではなく、実や種子を食べたり噛んだりするタイプの「嗜好品や食用としての利用法」であったと言われている。これはおそらく15世紀初頭にエチオピアからイエメンに「再来」したのと同じスタイルの利用法だ。14世紀から15世紀初頭の、エチオピア内陸部でのキリスト教エチオピア王国の侵攻は、西南部の原住民やイスラム教徒の大規模な移動を引き起こした。これにともなって、エチオピア西南部からイファトを経てゼイラ、そしてイエメンへと、このタイプのコーヒーの利用法が伝えられた可能性があることについては、以前論じた。

ただしだからと言って彼が渡った先が、ゼイラやその周辺のアダルやハラーなどの「エチオピア」だと断言することはできないだろう。イエメンに渡ったのと同様に、それ以外のエチオピア周辺の地域…バール・アル=アジャムの各港にも、エチオピアから逃れてきた人々によってコーヒー利用が広まっていた可能性は十分考えられるからだ。彼が渡った先がどこであったとしても、この近隣であれば、コーヒー利用を目撃できた可能性がある。


そして彼がアデンから逃れて何年か後、アッ=ナースィル・アフマドが崩御したという噂が彼の耳に届く。ひょっとしたらその後もしばらくは、次のスルタンの方針を伺っていたかもしれないが、ザブハーニーは再び住み慣れたアデンに戻ることを決意する。

そして戻った彼が目にしたものは……すっかり変わり果てたアデンの姿であった。交易商や心あるウラマーは姿を消し、交易のために立ち寄る船も途絶え、商人たちが立てていた神殿も放置されていた。かつて商人たちと活気に溢れていた頃の面影もない、寂れきった町の姿を目の当たりにした彼の驚きと嘆きはどれほどだっただろう。

それでも彼はアデンに暮らすことを決意する。彼が「教師になった」というのは、この頃のことかもしれない。他の心あるウラマーたちがアデンから去り戻ってこなかったため、彼が教師になった可能性はあるだろう。そうして彼は、前にも増して学問の探究に没頭するようになる。他に頼れるウラマーたちがいない中、彼は手に入る限りの文献を読みあさって知識を得ようとしたに違いない。また交易が途絶えたアデンでは、以前のようにハディースを研究して訴訟に備える、実用的な法学の需要は少なくなっていたことだろう。そのため彼はイスラム神学に傾倒し、やがてスーフィズムの研究に没頭する……こうして彼は「金曜の礼拝のときと、重要な人と会うとき以外は外出せず」、家に籠って文献を読み、スーフィズムを研究し、自ら多くの書物を著すという、サハーウィーが記した「引きこもり」のような隠遁生活を送りはじめたかもしれない。


やがて1428年にアッ=ザーヒル・ヤヒャがスルタンに即位すると、徐々にではあるが、アデンの状況は回復していく。1431年にはスルタンによって学校が立てられ、1435年頃には交易も復調していった。それに伴ってアルハドラミーのようなウラマーや、他のスーフィーたちもアデンに訪れるようになり、やがてザブハーニーはコーヒーとの「再会」を果たすことになるのである。