アデン暗黒時代

ここでラスール朝とアデンの歴史を思い出そう。

15世紀初頭、ラスール朝は8代スルタン、アッ=ナースィル・アフマド(1400-24年在位)の治世であった。彼は1420年頃からアデンからの収益を増やそうとして、結果的に失政を重ね、アデンを衰退させた(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20130323/1364014167)。

アッ=ナースィル・アフマドは暴君として名高いワンマンで、アデンの商人たちに対してかなり強引なかたちで圧力をかけた。彼はアデンからの陸路の輸送を、自分の所有するラクダ隊商で独占して利益を得ようとし、交易商たちにそれを強制しただけでなく、アデンから海路でエジプトに向かう商船を妨害した。商人たちにはかつてないほどの重税が課せられ、中でもエジプトのカーリミー商人たちは身の危険を感じて、積み荷を置いたままでアデンから逃げ出すほどだった。彼の治世が終わる1424年頃までのたかだか4年ほどで、アデンの交易はほとんど停止してしまったという。


ラスール朝時代のアデンにはそこそこの数のウラマーがいて、彼らの主な仕事が商業活動に伴う訴訟などへの対応であったことは上で述べた。彼らウラマーはクアラーン(コーラン)やハディース預言者ムハンマドの言行録)の知識に通じ、さまざまな揉め事に対する答えをその中から導きだして、人々に示す役割を担っていた。

アッ=ナースィル・アフマドによるアデンの商人たちへの圧政が商人たちの反発を大いに招き、ラスール朝の役人たちやスルタンの一族らと商人たちの間で、揉め事や訴訟が相次いだことは想像に難くない。そしてその度にアデンのウラマーたちは、イスラムの法に基づいて判決を出したはずだ。

しかしこの時代、ウラマーたちがイスラムの法に従って公平な判決を下したところで、それが商人に有利なものであれば、スルタンの威光によって無理矢理ねじ曲げられたと考えられる…アッ=ナースィル・アフマドが「暴君」と評されたのは、おそらくそのためだ。ラスール朝に限らず当時のイスラム国家は基本的に祭政一致、すなわちイスラム法に基づく「法治国家」である。ウラマーたちがイスラム法に基づいて下した判断を無視して、自分勝手に振る舞ったからこそ、アッ=ナースィル・アフマドは「暴君」と呼ばれるようになったのであろう。

おそらくアデンのウラマーたちは商人たちとスルタンの間で板挟みとなり、望まぬトラブルに巻き込まれることも多かっただろう。特に公正を目指してスルタンに不利な判決を下したウラマーは、スルタンの命を執行する役人から睨まれ、アデンの商人たちと同様に様々な嫌がらせや妨害を受けただろうと思われる。


さらにアッ=ナースィル・アフマドの圧政が続くと商人たちはアデンから逃げ出し、交易そのものもストップしてしまった。そうなると今度は、ウラマーの仕事そのものが激減し、ウラマーたちが職にあぶれるようになったと思われる。

アッ=ナースィル・アフマドが1424年に亡くなったことで圧政はひとまずの収束を見たようだが、一度アデンを離れた交易商たちがすぐに戻ってくることはなく、その後彼の後を継いだアル=マンスール・アブドゥッラー(1424-27在位)、アル=アシュラフ・イスマーイールII世(1427-28在位)の時代を経て、アッ=ザーヒル・ヤヒャ(1428-1439在位)の治世の1435年頃に政策が転換されるまで、アデンの「暗黒時代」は続いた。