ウダインまでの経路

次に、ウダインに至るまでにコーヒーが通った道筋についても考えてみたい。コーヒーノキは紅海を挟んだエチオピアから、どこかの港に船で運ばれて来たはずだ。

紅海に面したイエメンの港として、現在は

  • フデイダ(フデイダ州の首都)
  • モカ
  • アデン

などの名前を挙げることが出来るだろう。

ただし、フデイダやモカが栄えたのは15世紀頃からと言われており、それ以前にはもう一箇所、フデイダとモカの丁度真ん中に重要な港があった。そこはアファーブ(Al Ahwab、アル=アファーブ)と呼ばれる、当時「イエメンで最も美しい町」と呼ばれたザビードの西に位置する港である。イブン=バトゥータが、1330年頃にイエメンを訪れた際、この港から上陸してザビードに向かったことが「大旅行記」にも記されている。

なおアファーブはその後廃れ、15世紀初めにはそのすぐ近くに二つの港(Al BanderとAl Jadid)が作られたらしい。やがてこれらも、その後15世紀中にモカとフデイダが発展すると、そちらに取って代わられた。現在、アファーブの周辺には港湾都市の遺跡だけが残っている。


エチオピアのコーヒーが最初に着いた港の候補としては、フデイダはやや北寄りすぎるかもしれない…特に「ウダイン起源仮説」を唱える上では。

モカはいかにもエチオピアに近く、モカ→タイッズ→ウダインという流れは容易に想像できる。ただし、イエメンコーヒーの栽培が始まったのは、イブン=バトゥータが来た1330年頃からおよそ100年の間だろう*1、と想定すると、この時期にモカ港がそこまで活発な、エチオピアとの取引をさかんに行っていた港かどうかには疑問もある。モカの繁栄はむしろ、コーヒー栽培が始まり、その主要積出港になってから、と考える方がしっくりくる。


…ということで、ここでは、(1)アファーブ、(2)アデン、という二箇所を候補として挙げておきたい。


(1)のアファーブからウダインに至る経路としては、まず「アファーブ→ザビード→ウダイン」という経路が考えられる。アファーブからザビードに運ばれ、そこから直接山を越えてウダインまで運ばれた、という考え方だ。イブン=バトゥータも、ザビードからウダインを経て、ジーブラ(現在のアブの近く)に向かっている。彼と同じ道のりを後からなぞるように、コーヒー栽培はウダインに辿りついた、という仮説はどうだろうか。


イブン=バトゥータによると14世紀頃のザビードは非常に美しい町で、多くの果物や野菜が市に並んでいたようだ。また彼はザビードにしばらく留まり、何名かの有力なスーフィー達から歓待を受けている……何となく、イエメンでのコーヒー飲用初期に「スーフィー達が祈祷のときに利用していた」という、そのスーフィー達を思い浮かべたくなるではないか。


一方、(2)のアデンも、ウダインにも近く、アデン→タイッズ→ウダインという道のりが想像できる。イブン=バトゥータがエチオピアに向かうときに出港したのもアデンだったし、1454年に、コーヒーを正式に「イスラムの戒律上問題ない」と認めたゲマルディンも、アデンのムフティー(法学者/責任者)であった。これらのことから、この仮説にも大いに想像力をかき立てるものがある。ただし、アデンに着いたものであれば、ウダインより前に、ダレやヤッファでの栽培が始まっていても不思議はなかっただろうが。

*1:彼がイエメンにいるときの記録に、コーヒーやコーヒーノキを思わせる記述がないのが、その根拠に挙げられる。山内先生がこの説を支持しており、アントニー・ワイルドもほぼ同意見のようだ。イブン=バトゥータは、イエメンで複数のスーフィーたちから熱烈な歓待を受けていたし、またウダインに近いタイッズからジーブラ(アブ)を経てサヌアに行き(実際にサヌアに行ったかどうかには異論もあるようだが)、その後再びアブを経由してアデンに向かっている。まさにコーヒー栽培地のまっただ中を通っていたのだから、この時期にコーヒー栽培が行われていれば、彼の目にとまらなかったのは不自然だ、というのがその根拠になるだろう。その後、ゲマルディンがアデンで、イスラムの戒律上合法との判断を下したのが1454年なので、この頃までには普及していたと考えられる。