コーヒー栽培と自家受粉

今日、アラビカは世界中に広まり、世界のコーヒー栽培の70〜80%を占めている。だが、もし人々が最初に注目したのが「自家受粉可能な」アラビカでなかったら、ひょっとしたらこれだけの広がりはなかったかもしれない…オランダによるジャワへの移植も、ド・クリューによるマルチニーク島への移植も、すべて失敗に終わっていた可能性が高いからだ。


エチオピア原産のアラビカは、イエメンで人為的に栽培され、そこから種子や苗木が(多くの場合こっそりと)持ち出されて他の地域に広まった。いくつか例を挙げると、

  • イエメン→インド(ババブタンの伝説):7粒の種子(1600 or 1695)
  • ジャワ→アムステルダム:数本の苗木(1706)→→→中南米のティピカの起源
  • アムステルダム→パリ植物園:1本の若木(1714)→→中南米のティピカの起源
  • イエメン→レユニオン島:60本送られた苗木のうち2本が定着(1715)→うち1本がブルボンの起源
  • パリ→マルチニーク(ド・クリューによる):3本運んだ苗木のうち1本が定着(1723)→中南米のティピカの起源
  • スリナム→)仏領ギアナ→ブラジル(パリェタによる):5本の苗木(1727)

コーヒーの伝播の経緯は「物語」としてフィクションの部分も含まれていると考えるべきだろうが、いずれの場合も、きわめて少ない数の種子や苗木で移植が成功している点は、ある意味で示唆的と言えるだろう……ここにアラビカが自家受粉可能であることが大きく関わってくる。自家受粉可能だからこそ、たった一本の木だけでも移入できれば、そこから取れた種子を元に、子孫となる植物を大量に増やしていくことが可能だったのだ。これに対して例えば、後にロブスタをさび病対策でジャワに移入するときなどは、数十本の木をコンゴから運ぶ必要があった。


また自家受粉が可能なことは現在さまざまなコーヒーの品種が見られることとも無関係ではない。自家受粉可能であると、遺伝的に劣性*1の遺伝的形質が固定されやすいことにつながる。

仮に、ある農園に「純粋なティピカ(表現型 TT)」と「純粋なブルボン(表現型 tt)」が1本ずつ生えていたと仮定しよう。もしこの両者がそれぞれ自家受粉できないとしたら、二つの木に出来る種子(F1世代)はどちらも「Tt」で、そこから育つ木の見た目はすべてティピカと同じ(ただし遺伝的にはどちらの親とも異なる)になる。単に表に出ないというだけで、ブルボン型の遺伝子(t)はずっと保存されてはいくのだが、ブルボンの見た目を持ったttが現れるのはその次の世代*2からだ。
これに対し、もし両者がそれぞれ100%自家受粉で種子を残すならブルボンの木に出来た種子はすべてttで、そこから育つ木は見た目も、遺伝子的にも完璧に「ブルボン」だ。もちろんティピカも同様……これが「遺伝的形質の固定」という意味だ。黄色い実の付くアマレロ(xcxc)でも似たようなことが起きる*3


「遺伝的形質が固定されやすい」ということは、コーヒーの育種や品質管理の上でもメリットが大きい。優れた特徴を示すアラビカの変異体が見つかったら、とりあえず「その木から」種子を取っておけばよい。他家受粉の場合よりもかなり高い確率で、その種子から育った植物も同じ特徴を示すはずだからだ。さらに、優性ホモ(TTやXcXc)でも劣性ホモ(ttやxcxc)でもいいので、対立遺伝子をホモ*4の状態で持っていれば、その「自家受粉で出来た子孫」も、同じ表現型を示すことになる*5…要は、取れた種子から育てた木が、元の木の「クローン」になると考えればよい。

優れた品質や便利な遺伝的形質(多産だとか、丈が低くて収穫しやすいとか)を持つ植物を「クローン」として量産できるということは、特に商業栽培においては非常に大きな意義を持つものになる。


実際はいくら自家受粉可能とは言っても100%すべてがそうというわけではない。しかし、農園で栽培されている1本のコーヒーノキに出来た種子のうちの大半、およそ90%が自家受粉によるもので、残りの10%が他の木から受粉したものだったという研究結果がある。単なる机上の計算だけでなく、実際にこれまでに行われてきた品種の選別や維持などにも、この性質が関与してきたと言ってよい。

*1:「劣性」という言葉がしばしば誤解の元だが、「悪い/性質として劣った」という意味ではない。あくまでその形質が表に出るかどうかでの優劣なので「優性/劣性」でなく「顕性/不顕性」と言い換える人もいる。

*2:Tt×Tt = TT:Tt:tt = 1:3:1。この場合、F2の1/4がブルボン。

*3:ただし、Xcは不完全優性なのでXcXcは濃い赤、Xcxcは明るい赤〜橙色になる。

*4:ヘテロ:この場合TtやXcxc

*5:Coffee: Growing, Processing, Sustainable production辺りに、栽培品種でも形質が安定したsingle lineと認められるのはF6世代以降とされてるのはこの辺の事情が絡んでる…そのくらいで「純系」になったと見なしてるが、コーヒーでは概ね1世代に4年くらい掛かるので、それでも20年以上掛かるわけだが。