(エッセイ風に)

コーヒーノキの故郷はエチオピアだが、今日の飲み物としてのコーヒーの故郷はイエメンである。

エチオピア南西部では古くからコーヒーの実を脂と混ぜ合わせたものをオロモ人(ガラ族)が戦地に赴くときの携帯食にしたと言われており、またラーゼス(アッ・ラーズィー)が記したように、生豆(ブン、ブンカム)の煮汁を薬用にしていたと言われている。これがおそらく14-15世紀頃に(辻調の山内先生が考察されてるように)イエメンに伝えられ、そこで(おそらくはアントニー・ワイルド『コーヒーの真実』での想像ほど極端ではないにせよ)イスラム僧の錬金術的な試みの過程で、さまざまな「調理法」が検討された。一つには、コーヒー以前に中国から伝わっていた茶を手本にしてコーヒーノキの葉から作った「カティ」、そして甘く熟した実を煮出した「カフア・アル・ギシル」、そして実の中にある、大きな種子の殻を割って取り出した胚乳(=コーヒー豆)から作った「カフア・アル・ブン」。おそらくその後、コーヒー豆を焙煎することで、より嗜好に適した香しい飲み物になることが見いだされ、それがイエメンのブンとして、今日我々が楽しんでいるコーヒーの系譜につながっている。


今日のイエメンでは、ブンよりもギシルを使ったカフアの方がありふれた飲み物だそうだ…一つには生豆は対外的な商品的な価値が高く輸出に回すことが優先され、実と殻(パーチメント)が必然的に大量の廃棄物になってしまい、国内で消費する習慣が根付いたという可能性もあるだろう。しかしもう一つの面として森光さんが指摘しているように、乾燥果実であるギシルの方が、コーヒー豆よりも日持ちしないため、そもそも生産地以外では利用できなかったから、という要素も非常に大きいと思われる。


イエメンはコーヒー栽培の始まりの地であるとともに、世界で唯一「自分たちで消費するために」コーヒー栽培を始めた地である。この点はインドネシアやブラジルなど、元々「生豆を輸出するために」栽培を始めた国とは一線を画する……これらの国々では、コーヒーとは「ブン」のみであり、それ以外の部位はそもそも利用対象としては見ていなかった。ギシルは、コーヒーと人の関わりを考える上で、非常に重要な位置にある飲み物であり、だからこそコーヒー愛好家としては是非一度味わってみたいと熱望する飲み物である(たとえその結果、それが自分の口には合わなかったとしても)。


珈琲美美の森光さんは、かつて「御三家」と呼ばれてた、吉祥寺もかの標木さん(故人)の弟子である。「もか」の店名にもなったイエメンやエチオピアモカに強く拘り、福岡で「美美」を開いてからも、コーヒーのルーツであるイエメンやエチオピアモカに拘りつづけた…かなりの深煎りで、ネルドリップで仕上げられる美美の「モカ」は、一般のコーヒー愛好家が持つモカのイメージ…酸味が強いコーヒーで、独特の香りがある…を根底からひっくり返す。

とろりと濃厚で、口の中にとどまる強いコクのある苦味を持ち、それでいてどこか爽やかなモカ独特の野趣ある香り、かすかな酸味と甘味が(これらはしばしば深煎りで失われがちな要素だが)十分に残っている、そういう「昔ながらの、一流の自家焙煎店」の味だ。モカでありながら、その持ち味は「苦味と香り」であり、一般にイメージされるような酸味ではないことは、山内先生が述べていた「文献上、コーヒーの味の表現に『酸味』が現れたのは、ごく最近のこと」ということを思い起こさせる。モカはヨーロッパ人が初めて味わったコーヒーであり、イエメンやエチオピアでは未だにその当時に近い(近代化されていない部分の多い)栽培法で、当時のものと変わらないだろう独自の品種群が生産されつづけている。中世ヨーロッパの知識階級が出会い、驚き、そしてやがて熱狂したコーヒー「モカ」に、現在の日本で最も近いものを探すならば、おそらくそれは美美のコーヒーだろう、とそう思う。