マンデリン:北スマトラのコーヒーの歴史

コーヒーの銘柄は数多くあるが、その中でも「マンデリン」は日本でのファンも多く、有名なものの一つだろう。しかし、その来歴を語ろうとすると、かなり込み入っている。


「マンデリン Mandheling」はスマトラ島北部で産生されるコーヒーに付けられた銘柄名である。元々この言葉は、北スマトラ内陸部の原住民の一つ「マンダイリン族 Mandailing」*1の名前に由来する。

*1:英語では、"Mandailing"と綴った場合にはこの「マンダイリン」という部族や彼らの話す言語、暮らしていた地域などを、"Mandheling"と綴った場合には「マンデリン」というコーヒーの名前を指すことが多い。元々、オランダ語ではこの部族を"Mandheling"と綴っており、英語ではコーヒーの名前の場合のみ、オランダ語と同じようなスペルで表す。

とあるエピソード

この部族の名前がコーヒーの名前になった経緯については、以下のようなエピソードが世界的に知られている。

第二次世界大戦の頃、インドネシアに駐留していた日本軍の兵隊の一人が、現地のコーヒーショップに立ち寄った。そのあまりの美味しさに、彼は思わず店主にこう尋ねた。


日本兵「うまい! これ、どこのコーヒー?……
   (あ、日本語は通じないか。エート、インドネシア語で「どこから?」は……)
    Dari, Mana?」


店主「…?
  (Umai!, xxxx?…Umae? Omai? "おまえ"ッテ言ッタノカ?…"オマエ、Dari、Mana"……アア、出身ヲ聞イテルネ!)
   マンダイリン(族ノ出身デス)」


日本兵(なるほど、これは「まんでりん」のコーヒーか…)


…そして終戦後、スマトラのコーヒー輸出業者に一本の電話が入る。

日本人「マンデリンコーヒーを輸入したいんだが…」


このとき電話かけたのは、もちろんその日本兵、電話を受けたのがプワニ(Pwani)という有名な輸出業者で、このとき15トンのコーヒーを日本に向けて輸出した…と話は結ばれる。


……とても面白いエピソードだが、実はこれ、まったくの作り話である。


1903年アメリカのシアーズの特売品カタログに、既に「Java-Mandailing」という品名が記載されているそうだ*1シアーズのリストについては残念ながら現物を確認できていないが、ユーカーズの"All about coffee"(1922年、初版)にも確かに"Mandheling"の記述が存在している。このことから少なくとも第二次世界大戦より20年以上前に、「マンデリン」の名前が欧米に知れ渡っていたことは確かだ。

*1:当時、インドネシア産のコーヒーは、ジャワ島以外のものも「Java-Mandailin」「Java-Timor」などのように表記されることが珍しくはなかった。

マンダイリン・バタック族

このエピソード自体はともかくとして、マンデリンの語源が北スマトラの部族の名前から来ていることは確かだ。この部族は、北スマトラの内陸部に古くから暮らしている、バタック族(バタク族、Batak、Battak、Battas)と呼ばれる部族の、支族の一つであり、マンダイリン・バタック族(Mandailing-Batak)と呼ばれている。彼らが暮らしていた地域が「マンダイリン(族の土地)」と呼ばれ、そこで作られていたコーヒーというのが「マンデリン(Mandheling)」という名の由来である*1

もしコーヒーに詳しい人であれば、最近のスペシャルティコーヒーのブームで、「リントン・ブルー・バタック」という名前のスマトラ産コーヒーを飲んだことがある人もいるかもしれない。この「バタック」というのが、バタック族のことを意味している。


では、このマンダイリン・バタック族、そしてバタック族とはどのような民族だろうか?


バタック人(バタック族出身の人々)は現在もスマトラ島北スマトラ州などに多く暮らしているインドネシアの民族の一つである。ジャワ島のジャワ人など、他のインドネシア人に比べると、いかつい顔つきで声が大きく、勇猛かつ剽悍でしばしばデリカシーに欠けると評されることが多い。インドネシアで大声で怒鳴っている人がいれば、それはバタック人だ、と言われるくらいだそうだ。しかし、その一方で論理的な思考の持ち主で、弁護士や政治家などに多くの人材を輩出してきた。また非常に歌がうまいことでも知られている。


バタック族はさらに、大きく6つのグループに大別される。北の方から、カロ・バタック族、シマルンガン・バタック族、パクパク・バタック族、トバ・バタック族、アンコーラ・バタック族、そしてマンダイリン・バタック族である。

ミシガン大学人類学博物館の地図を元に作成。北方にはアチェ族の支族、アラス族やガヨ族の領域がある)


同じ言語(バタック語)を用いているが、それぞれ、方言に相当する程度の若干の違いがあり、この言語の違いによって分類されている。さらにそれぞれのグループはいくつかの氏族にわかれている。元々は独自の土着の宗教を有していたが、現在はキリスト教に改宗している者が多い。ただし、南方のアンコーラ族やマンダイリン族ではイスラム教徒が多い。


改宗前のバタック族たちには、恐ろしい風習が存在しており、ヨーロッパのみならず、周辺国の人々にも恐れられていた。それは「食人」の風習だ。バタック族は、戦争で捉えた捕虜などを食べる「人食い人種」であった。ただし、彼らは栄養源として、あるいは美食のために食人を行っていたわけではない。戦士や犯罪者などを食べることで、その「強さ」や「エネルギー」を自分のものとするという考えから、儀式的に食人を行っていた。この風習は少なくとも19世紀末までは続いており、当時この地を探索しようと試みた欧米人の多くは、生きて帰ることがなかった*2。上述したバタック族のグループ同士でも、しばしば小競り合いや戦闘が生じていたが、一説にはこの食人の風習のためであったとも言われている。


この恐ろしい風習のため、当時ヨーロッパにおいては「スマトラの奥地にすむ、野蛮な人食い人種」だと評価されていたが、後にイギリス人のラッフルズが現地の調査に赴いたときに、実はバタック族が、独自の宗教観や高度な文化を持つ、「文化的な」人々であることが明らかになった。特に、独自の「バタック文字」まで有していることが明らかになり、その点では周辺の民族よりもかなり「先進的」であったとも言えるだろう*3

*1:このように、部族名が地名とコーヒーの銘柄名に結びついている例としては、モカ・マタリも思い出されるだろう。

*2:彼ら全てが食べられたかどうかは不明である。独自の慣習上のタブーに触れて殺されたり、あるいは単に途中で病死したものも多かったであろうと思われるが。

*3:ラッフルズスマトラ探索で知り得た内容は『スマトラ誌』と呼ばれる著書にまとめられていたが、船の火災によってその原稿は失われてしまった。当時のスマトラ島の状況については、彼が夫人に送った書簡などから、その一部が伺える。もし『スマトラ誌』が現存していれば、『ジャワ誌』に並ぶ貴重な民族学的資料になっていただろうと惜しまれている。

"All About Coffee"に見る、スマトラ産コーヒー

マンデリンは、古い文献でしばしば「最高級コーヒーの一つ」と記載されている。Ukersの"All about coffee"の初版(1922年)でもマンデリンについて、

"The best coffee in the world"; also the highest priced.

と記している。このことは、今でも国内の評判が高いことと無関係ではないだろう。


All About Coffeeは、1922年に初版が、1935年に第2版が発行されているのだが、実はマンデリンを含む、スマトラ産コーヒーについての記述は、初版と第2版で異なっている。

第2版においてスマトラ産アラビカであることが明確なものは、

  • Mandheling (Padang)*1, Ankola (Sibolga), Toba

の3つである。これらはいずれも、それぞれ上述したバタック族支族、すなわちマンダイリン(Mandailing)、アンコーラ(Angkola)*2、そしてトバ(Toba)・バタック族を意味する。


一方、その13年前に刊行された初版には、MandhelingとAnkolaの記述が見られるものの、Tobaについての記載はない。第2版の中で、Tobaの項には "New native plantations."と書かれており、比較的新しい現地人の農園であったことが伺える。その一方で、初版には、マンデリン地区よりもさらに南方の西スマトラ沿岸に位置するパイナンやインドラプラなどの銘柄が見られる。これらの港町を有する西スマトラ地区はミナンカバウとも呼ばれ、バタック族とは別の、ミナンカバウ人とよばれる民族が暮らす地域である。

*1:括弧内に示したのはその主要積出港の名前である。

*2:"Ankola"については、インドに同名の積出港があるためか積出港の名前として書かれた文献が散見されるが、Ukersの記載などに照らしてもアンコーラ・バタク族を意味すると解釈するのが妥当である。

北スマトラとコーヒーの歴史

スマトラ島北部のコーヒー栽培は、このミナンカバウから始まり、マンダイリン、アンコーラ、トバ地区へと徐々に北上し、最終的にはアチェ州中部のガヨ地区にまで広まった。これらの地域を理解するため、ここで少し、東南アジアの歴史に照らしながら紐解いておきたい。



  • (1696年 ジャワでの本格的なコーヒー栽培開始)
  • 18世紀初頭 スマトラ西部のナタールにコーヒーが伝わる
  • 1780年 第四次英蘭戦争によりオランダの海上輸送が困難に
  • 1790年 パダンからアメリカに向けて初めてのコーヒー輸出
  • 1800年頃 ミナンカバウ高地でコーヒー栽培が盛んになる
  • 1821年 パドリ戦争(〜1838年
  • 1841年 マンダイリン、アンコーラ地区でコーヒー栽培が始まる(強制栽培制度導入)
  • 1847年 ミナンカバウでコーヒーの強制搬入制度が始まる
  • 1873年 アチェ戦争(〜1904年、1912年に完全制圧)
  • 1878年 バタック戦争(〜1907年)
  • 1903年 シアーズ特売品リストに「Java-Mandailing」の記載)
  • 1915年頃 アチェ南部のアラス地区の開墾地でコーヒー栽培が広まる
  • (1922年 ユーカース『オールアバウトコーヒー』初版)
  • (この間にトバ地区でのコーヒー栽培が本格化?)
  • (1935年 ユーカース『オールアバウトコーヒー』第二版刊行)
  • 1942年 日本軍がスマトラを占領(〜1945年頃までコーヒー輸出が途絶える)
  • 1949年 インドネシア独立
  • 1970年頃 トバ地区にラスナ(ジェンベル、Sライン)が導入される
  • 1978年 アチェ開発支援が始まり、ティムティムとカチモール(アテン)が導入される
  • 1990年代 トバ地区にアテンが導入される

港市国家の時代

東南アジアは、5世紀頃から海上交易によって栄えはじめた。西方のイスラム諸国と、東方の中国との交易を結ぶ地点であったと同時に、東南アジア自体が香辛料や金の産出地でもあったためだ。これらの交易を行う場として、東南アジアでは海に面した港湾部が発展し、「港市国家」と呼ばれる国家が成立していった。これらの港市国家には、多くの国の人が自由に立ち寄ることが可能であったが、同時に現地の海上民や、内陸に暮らす原住民との関係も良好に保たれていたという。


パサイは、スマトラ島北部で最初に発展したイスラム系の港市国家である。当初、パサイは「サムドラ」と呼ばれていたが、後にこの都市を指すサムドラが島全体を指す言葉となり、都市の名が「パサイ」と呼ばれるようになった。スマトラという島の名前は、この「サムドラ」が転訛したものだという説がある。


パサイはイスラム国家でありながら同時に、後背のスマトラ島内陸部の諸部族たちとも友好関係を築いていた。内陸部で採れる安息香や竜脳などの香木や金*1、また15世紀後半までには南インドから持ち込まれたコショウも内陸部で栽培され、パサイで取引されていた。

これらの資源は「恐ろしい人食い人種の土地」のものであり、欲に目がくらんで自ら内陸に向かった者達は生きて帰ることはなかったのだろう。パサイを初めとする港市国家は、内陸部の国家の正統性を認め、自らの国を「彼らの親類縁者だ」と主張することで、友好関係を築いたのである。


その後、東南アジア交易の中心はマレー半島側のムラカ(マラッカ)王国に移行する。パサイよりムラカの方が、年中を通して船の停泊が容易で、港として理想的であったことが、その一因である。ムラカもまた、スマトラ南部にあった言われるシュリヴィジャヤ王国の系譜に連なる国家であることを主張して、スマトラ島の諸民族との関係を良好に保っていた。ムラカ王国もパサイ同様イスラム教国家であり、東南アジアにおける交易だけでなくイスラムの中心地として大きく発展を遂げた。

しかし1511年、ポルトガルがムラカに目をつけて攻め滅ぼし、この地を占領してしまった。さらにポルトガルは、ムラカを単に東南アジアの活動拠点にしただけでなく、香辛料を中心とした東南アジアの交易全体を管理し牛耳ろうと考えた。


この動きへの反発から、交易商たちは活動拠点をスマトラ島北部のアチェ王国に移すようになった*2イスラム人交易商たちは特に、カソリック国であるポルトガルを嫌って、アチェでの交易を中心にした。

インドネシアの西端に位置するアチェ王国は、同時に西方のイスラム諸国への玄関口にもなった。アラビア語の書物の多くが、ここでマレー語などに翻訳され「イスラムのベランダ」とも呼ばれた。アチェ王国民は、自らを、ポルトガルによって滅ぼされたムラカの正統なイスラムの後継者である、と自負していたとも言う。

またパサイより西側に位置していたアチェからは、スマトラ島西岸を廻ってジャワ島に至る「西回り」の航路が開拓された。ムラカを掌握したポルトガルが、マラッカ海峡を通行する船舶全てにちょっかいを出そうとしたため、従来の航路を避けて、西回りの航路を通る船が増えていったのである。


この西回り航路の開拓に伴い、アチェスマトラ島西岸の港市まで支配するようになった。トバ湖周辺の稲作地帯を後背地とするバルス、後にスマトラ島で初めてコーヒーが渡ったと言われるナタール、「マンデリンコーヒー」の主な積出港になったパダンやシボルガなど、スマトラ西部の港町の多くが16世紀前半には、アチェ王国の支配下になっていた。これら沿岸部の港市ではイスラム教が徐々に浸透していったが、アチェ王国は内陸部にまでイスラム信仰を強制することはしなかった。パサイと同様にアチェもまた、内陸部にある王国の正統性を重んじながら、友好関係を保つという方針を依然続けることで、香料や金の交易でも利益をあげていったのである。


このアチェの繁栄は、1607年に即位したイスカンダル・ムダの治世に最盛期を迎える。イスカンダル・ムダはインドネシアの各地に遠征し、スマトラ島沿岸部の諸都市を制圧し、イスラム教を布教した。しかし1629年、宿敵であるポルトガル領ムラカへの遠征に失敗して海軍を失うと、その勢力は徐々に衰退していった。

オランダの進出とコーヒーの導入

沿岸部へのアチェ王国の影響が低下するのと入れ替わりに勢力を伸ばしたのがオランダ東インド会社(VOC)である。1619年にバタヴィアに拠点を置いたVOCは、そこを足がかりとして、インドネシア港湾都市の多くにオランダ商館を設置した。時には直接的に強大な武力をちらつかせ、時には現地政権の内紛時に力を貸す代償として、徐々にインドネシア各地で影響力を増していったのである。スマトラ西岸地方もその例外ではなかった。


このような時代背景の中、スマトラ島に初めてコーヒーが持ち込まれた。その正確な時期については明らかではないが、18世紀初頭にスマトラ島西岸のナタールに移入されたのが最初だと言われている。ジャワ島で本格的な栽培が始まったのが1696年以降であるから、それからさほど時間を置かずにスマトラ西部から北部にかけての栽培が始まったと考えていいだろう。その後、コーヒー栽培はスマトラ島の「背骨」とも呼ばれる、ブキット・バリサン山脈に沿って広がっていったと考えられている。


スマトラ西部から北部での栽培が、具体的にいつ、どのように広まっていったのかについては、はっきりとはわからない。ただし、最初にコーヒー栽培に力を入れたのはスマトラ西部の内陸部に暮らすミナンカバウ人であったと言われる。ミナンカバウ人はマンダイリン・バタック族の暮らす地域よりも南方の「ミナンカバウ」と呼ばれる地域に暮らす民族である。


ミナンカバウ人もスマトラ内陸部の民族であり、古くから金や森林資源を産出した地域である。ミナンカバウからはスマトラ島の東西に多くの川が流れていたため、港市が繁栄するかどうかの運命は、ミナンカバウ人がその資源をどこに運ぶかによって左右された。このためパサイやアチェからも一目置かれる存在であった。ミナンカバウには14世紀頃にパガルユンという王国が存在し、独自の建国神話*3を有していた。パサイやアチェなどの港市国家には、ミナンカバウの正統性を認めた上で、自分たちもまたその末裔であるということを述べた「建国神話」が残されている。そうすることで、内陸部の権威とのつながりを保ち、良好な関係を築こうとしたのだろうと考えられている*4


初期のコーヒー栽培は、ミナンカバウ建国の聖地でもあった、マラピ山(ムラピ山)の麓から始まったと言われている。ミナンカバウ人は商才に優れた民族だと言われ、古くから自分たちの主食と同時に商業作物の栽培も行っていた。このため、外来の商業作物であるコーヒーを栽培し、近くの港で売ることにも慣れていたのだろう。義務供出制度が早期に始められたジャワ島とは異なり、スマトラ西部ではVOCによる監視が甘く、自由販売が可能な部分も多かったらしい。


特に18世紀後半になると、この流れに拍車がかかる。1780年から1784年にかけて、オランダとイギリスの間で第四次英蘭戦争が勃発した。この戦争によって、東インドとオランダ本国の間での輸送が途絶えてしまう。このためスマトラで作られたコーヒー豆も行き場を失ってしまったのだ。当時、スマトラ西部のコーヒーの多くはパダンから輸出されていたのだが、この頃、パダンにあったオランダ商館の責任者は、オランダ人にしては珍しく融通のきく人物だったそうで、どうせオランダに送れないのならと、他国の商人との間で自由に販売することを容認したのだという。

このとき、食指を動かしたのがアメリカである。1790年に初めて、パダンからアメリカに向けてコーヒーが輸出されると、間もなく一大マーケットが確立された。この「自由貿易」…とまでは言えないにせよ「かなり自由」な貿易が、ミナンカバウ周辺でのコーヒー栽培を大いに活気づけたと考えられる。1800年頃には、ミナンカバウの標高700〜1000m 地帯のほとんどすべてで、コーヒーが栽培されていたという記録が残されている。

パドリ戦争の影響

ミナンカバウ内陸部のパガルユン王国を支えていたのは、山地で採掘される金の存在であった。しかし、コーヒー栽培がさかんになりはじめた18世紀末頃に、この金が枯渇しはじめ、ミナンカバウの王権に翳りが出始めた。これに加えて19世紀初頭に、パドリ派と呼ばれるイスラム改革派が西スマトラで台頭しはじめた。


ミナンカバウ人は元々、世界的に見ても珍しい母系社会の民族である。土地や財産は母から娘へと受け継がれ、男性は一定の年齢になるとスラウと呼ばれる集会場で共同生活を送り、成長したら他の土地に出稼ぎに行って、一旗揚げて帰ってくるのが理想的とされる。

この伝統的慣習と父権性の強いイスラムの慣習には矛盾が大きいが、ミナンカバウ社会ではこれらの伝統的慣習を「アダット」と呼び特例的に扱うことで、両方の慣習を共存させていたのである。この他タバコや酒、キンマやアヘン、賭博等も、ミナンカバウ伝統社会の慣習として、アダットとして認められていた。


1803年、メッカ巡礼から戻って来た者(3人のハッジ)を中心に、これらのアダットを反イスラム的なものと見なして、宗教改革運動を行う者が現れた。ミナンカバウの一部の村では彼らの活動を支持し、、後にパドリ派と呼ばれるイスラム改革派となった。一方で、彼らに反対して伝統的慣習を守ろうとする村も存在したが、これらの保守的な村は、パドリ派による襲撃を受けることになった。こうして改革派であるパドリ派と、保守派である反パドリ派の武力衝突に発展した。


この余波を受けたのが、ミナンカバウに近接するマンダイリン・バタック族と、さらにその北に位置するアンコーラ・バタック族である。パドリ派のイスラム改革運動を受けて、これらのバタック族の多くはイスラムに改宗していった。現在、この両部族にイスラム教徒が多いのは、このためである。またマンダイリン・バタック族の一部は、スマトラ島東部からマラッカ海峡を渡ってマレー半島へと逃げ延びた。現在もマレー半島にはマンダイリン・バタック族起源の人々が多く暮らしている。


一方、徐々に旗色が悪くなっていった保守派は、イスラム改革派と対抗するため、当時一時的にスマトラを支配していたイギリスに支援を求めた。しかしその後、英蘭協定に基づきイギリスが撤退し、代わりにオランダが介入する。これにより1821年、ミナンカバウのイスラム改革派とオランダ東インド政庁との間で戦争が始まった。これがパドリ戦争である。


オランダは当初、早期の武力鎮圧が可能だと踏んでいたが、現地の宗教への無理解*5からパドリ派のみならず保守派の民衆からも大いに反感を買い、結果的にミナンカバウ人全てを敵に回すことになった。それに加えて、同じイスラム国家であるアチェからパドリ派へ武器が援助されたことと、1825年には東インド政庁のお膝元であるジャワ島でディポヌゴロ王子が叛旗を翻し、ジャワ戦争が始まったことで兵力をさかれ、長期化を余儀なくされる。

1833年にオランダは、離反しそうになったミナンカバウ保守派の首長らを懐柔するため「プラカット・パンジャン」と呼ばれる協定を発表した。この中には、ミナンカバウのアダットや、王室、地方首長らの権利を認めることに加え、コショウやコーヒーについては課税はするものの基本的に栽培および販売は生産者の自由にしていいことなどの約束が盛り込まれていた。この協定の中身は、保守派の首長らを満足させられる内容とはほど遠いものであった。それでも、改革派への対抗と民衆を納得させる必要から、主張らは不承不承この協定に合意してオランダに協力したのである。そして1838年、パドリ派最後の砦が落とされて、15年を越えるパドリ戦争はようやく終結した。


ところが戦争が終わるや否や、オランダは自ら提案したはずのプラカット・パンジャンを、一方的に反古にした。「課税はするが栽培・販売は原則自由」としていたコーヒーについても、ジャワ島で行ったのと同様、強制栽培制度を導入したのである。

ミナンカバウ人ではない、マンダイリンやアンコーラ・バタック族が暮らしていた南タパヌリ地方(ミナンカバウのやや北)では1841年に、そしてミナンカバウ地方で1847年に強制栽培制度が導入されている。

ただし、強制栽培制度とは言ってもミナンカバウ地方のものはジャワ島のものとは少し性質が異なった。ジャワ島では耕作地の一部で指定作物を栽培させ、それを指定価格で安く買い上げる制度であったが、ミナンカバウでは出来たコーヒー豆を強制的に一箇所に集めさせ、安く買い上げる仕組みであった。このため、ミナンカバウの場合は「強制搬入制度」とも呼ばれている。ただし、強制栽培制度も強制搬入制度も、システム的な違いはあるものの、どちらにせよオランダが現地住民から法外な搾取を行ったことには違いはなかった。このスマトラの強制栽培、強制搬入制度は1908年まで続けられた。

バタック戦争

マンダイリンやアンコーラ・バタック族の北には、トバ・バタック族と呼ばれる部族が、古くからのバタック族の伝統を引き継ぎながら暮らしていた。彼らが暮らすトバ湖*6周辺は、古くから稲作で栄えた地帯である。オランダによる強制栽培制度がすぐ南にまで広がってきたことが、トバ・バタック族にとって大きな脅威だったことは、想像に難くない。


一方、このトバ地区を巡ってもう一つの「ヨーロッパ人の思惑」が交錯していた。キリスト教による布教活動である。キリスト教の宣教師らがスマトラ島に来るようになった頃には、北端のアチェにも西スマトラのミナンカバウにも、既にイスラム教が普及しており、キリスト教の入り込む余地は無かった。これに対し、アチェとミナンカバウに挟まれたバタック族は原始的な土着信仰があるのみだと考えられていた。そこでイギリス、オランダ、ドイツなどのキリスト教宣教師たちが、18世紀頃から、この地で布教活動を試みたのである。

しかし上述したように、バタック族は人食い人種であり、布教には多くの犠牲を伴った。19世紀中頃までは、トバ湖を見て生きて帰ったヨーロッパ人はいなかったのである。

そんな中、1862年に、ルーテル教会派のドイツ人宣教師ルードヴィヒ・ノメンセンらが、トバ地区に隣接する港市バルスを足がかりにして、バタック族への伝道活動(Batakmission)を行った。子供のためのミッションスクールと、ゴスペルを利用した布教活動が成果を上げ、1865年には2000人のバタック族をキリスト教に改宗させることに成功した。


しかしそれでも、トバ湖周辺への伝道活動は大いに困難を極めた……というのも、そこにバタック族の伝統信仰と結びついた「神聖王」シ・シンガマンガラジャ12世がいたからだ。上述したようにバタック族は一枚岩ではなかったが、この「シ・シンガマンガラジャ」は、バタック族すべての祖先につながる王族であり、信仰と敬意の対象であった*7

元々バタック族は、スマトラ内陸部の例に漏れず、自らを始祖とする創世神話を有している。バタック族の創世神話によれば、地上のすべては水に覆われていたが、バタラ・グル(ヒンドゥー教におけるシヴァ神*8)の娘、プティ・オルラ・ブランが地上に降り立つことを望み、父である神がそれに応えて、トバ地方にあるバッカラ山を天界から降ろして、そこから地上世界が広まったとしている。


また、子宝に恵まれていなかったバッカラの一首長の妻が、天から降って来たジャンブ・バルスの実を食べて身ごもり、天から燕が降りて来て、その子の父がバタラ・グルであり、シ・シンガマンガラジャと名付けるべきだと告げたとしている。シ・シンガマンガラジャは、雷鳴が轟く暴風雨で、精霊がうろつく中で生まれたという。シ・シンガマンガラジャは雷と雨を支配するバタラ・グルの化身であり、稲の豊作を象徴する王でもあった。

シ・シンガマンガラジャ12世の存在を、布教活動最大の障害と考えたノメンセンは、1878年、バタック族により多くの宣教師が殺されているとオランダ東インド政庁に訴え、宣教師保護の名目の元に彼を排除しようと目論んだのである。


一方、オランダにとっても、この申し出は「渡りに船」であった。1873年に、オランダはアチェ王国との間で戦争状態になっていた(アチェ戦争)。アチェにおけるイスラム勢力の抵抗は激しかったが、1878年頃にはオランダはアチェの港市の大部分を掌握することに成功していた。しかしその傍らで、当時のオランダがもっとも恐れていたのは、パドリ戦争の再燃であった。すでにアチェの残存勢力の一部は山間部へと逃れ、ゲリラ戦の様相を呈しつつあった。アチェからミナンカバウ地方に至るスマトラ島の北半分が一斉に蜂起することは、何としても避けなければならなかった。アチェとミナンカバウの二つのイスラム勢力が再び結びつくことを危惧したオランダは、トバ地方を制圧すると共に、その地にキリスト教を布教させることで、アチェとミナンカバウという二つのイスラム圏を分断したいと考えたのである。


こうして、シ・シンガマンガラジャ12世を旗印とするバタック族と、ノメンセンに道案内されてきたオランダ東インド軍の間で、1878年に戦争が始まる。これがバタック戦争である。

バタック族は勇敢に戦ったがオランダの兵力の前に破れた。シ・シンガマンガラジャ12世は山中に逃れ、30年もの間にわたり抵抗活動を続けていった。しかし1907年ついに捉えられて、オランダによって処刑される。こうしてバタック戦争は終結し、バタックの王系もここで絶えてしまったのである。なお、この30年にも及ぶ抵抗から、シ・シンガマンガラジャ12世は現在、インドネシアの民族運動を象徴する英雄として讃えられている。以前の1000ルピア紙幣にもその肖像が使われていたほどだ。


一方、上述したアチェ戦争においても、山間部に逃れた残存勢力がゲリラ戦を展開し、その制圧には1904年頃までかかった。オランダがアチェ残党の最後の砦を落として、スマトラ島を制圧したのは1912年のことであった。これによって、現在のインドネシアに相当する地域がオランダ東インドとして、完全にオランダの手に落ちたのである。

トバ地方はオランダの占領下にはなったものの、強制栽培制度の導入はなされなかった。この頃すでに、オランダ国内での批判が高まり、強制栽培制度から倫理政策への転換が進んでいたためである。このため、トバ地方においては、現地住民による小規模なコーヒー農園が発達していくことになる。またスマトラ内陸部を完全掌握したオランダは、東海岸の都市メダンから、バタック地方との境界に近いアチェ州南部のアラス地方につながる自動車道を整備し、内陸部の未開地開発にも力を入れた。この新しい開拓地にも、南からトバ・バタック族などが移住してコーヒー栽培を始めたことで、コーヒー栽培はトバ湖からさらに北、アラス地方のさらに北のガヨ地方タケンゴンにまで広がっていったのである。

太平洋戦争とインドネシア独立

太平洋戦争の時代に突入すると、インドネシアの置かれた情勢は一変する。1942年、日本軍がジャワ島やスマトラ島に侵攻してオランダによる植民地政権を排除し、オランダ領東インドは日本軍政下に置かれることになる。日本軍は、インドネシア民衆の支持を得るため、オランダによって囚われていたスカルノやハッタら、インドネシア民族運動者を解放して協力を要請した。一方、民族主義者側も、この流れを利用して、インドネシアの独立を果たそうと考えて、その要請に応じた。


スカルノらは、1945年8月19日にインドネシア独立を宣言することを内定し、日本軍もそれを承認した。しかし1945年8月15日に日本は敗戦する。独立が白紙化することを危惧したスカルノとハッタは、その2日後の1945年8月17日、インドネシア国民の名においてインドネシア独立を宣言した。

これに対してオランダは独立の無効を主張して軍を派遣し、インドネシア独立戦争が始まった。武力で勝るオランダに対して、インドネシア側はゲリラ戦により徹底抗戦した。またオランダの植民地主義に対して国際的非難が集まり、外交交渉による解決が図られた結果、1949年に初代大統領スカルノのもと、インドネシアは正式にオランダからの独立を果たしたのである。

*1:安息香はトバ湖周辺、竜脳はそのやや北西のダイリ地区、金はやや南のミナンカバウ地方にかけての山地で採取されていた。

*2:さらに、ムラカ王国の残党がマレー半島南端のジョホールに王国を作った。このため、当時はポルトガル領ムラカ、アチェ王国、ジョホール王国が三つ巴でマラッカ海峡の交易の覇権を争っていたと言える。

*3:東征したアレキサンダー大王がインドネシアで海の王様の娘との間に3人の男子をもうけた。長男は西に行って東ローマ帝国の王に、次男は東に行って中国と日本の王に、三男はジョホールに残った。かつてスマトラ島は水中に沈んでいたが、島が浮上しはじめると、三男はミナンカバウのマラピ山に漂着し、やがてそこにパガルユン王国をひらき、そこからインドネシアの諸部族が始まった。

*4:一方でこれらの港市国家の多くはイスラム国家でもあった。内陸の古い王権との関係を損ねずに、かつイスラムに改宗したことを説明するため、これらの国の建国譚では王の夢に予言者ムハンマドが現れ「お告げ」をしたことがきっかけになって改宗した、というエピソードがしばしば見られる。

*5:現地のモスクを軍の駐留のための施設に使い、あまつさえ、イスラムでは悪魔の使いとされたイヌをモスクの内部に入れるなどの行為から、イスラム改革派とイスラム保守派両方の反感を買った。

*6:巨大なカルデラ湖であり、中央にはサモシール島と呼ばれる島(ただし陸地とつながっている)がある。島を除いた湖面面積で琵琶湖の2倍、島を含めると琵琶湖の3倍もの大きさである。

*7:チベット仏教における、ダライ・ラマのような位置付けに近いものがあったらしい。

*8:破壊神であると同時に創造神としての面も持つ。

「マンデリン」の変遷

コーヒーの一大ブランドである「マンデリン」は、1841年に南タパヌリで強制栽培制度が導入されたときに生まれたものだと考えられている。これらのマンダイリン、アンコーラ・バタック族の土地では、後にミナンカバウ地方で行われた強制搬入制度よりも、むしろジャワ島での強制栽培制度に近いことが行われていたようである*1。これらの土地では、オランダ東インド政庁主導のプランテーションが発達していたらしい。このことは、後に'All about coffee'に、"formerly Gorverment coffee."と記載されていることからも推測される。


オランダは、マンダイリンやアンコーラでは、現地住民に強制的にコーヒーを栽培させて安く買い取り、ミナンカバウでは現地住民が自分たちの土地で栽培したコーヒーを強制的に搬入させて安く買い取るという、どちらにしても現地住民からの搾取によって利益を上げた。このシステムはそれぞれ1908年まで継続する。

ただし、この制度が終わる少し前の、19世紀末頃にはミナンカバウでは住民の階層化が進んだ結果、コーヒー栽培以外の職業に従事するものが徐々に増え、その結果としてコーヒー収穫量は減少しており、十分な利益を上げることが出来なくなっていたという。その結果、ミナンカバウでのコーヒー栽培は徐々に衰退していった。'All about coffee'の記載でも、1922年に見られた南寄りの港の名前が、1935年には見られなくなっているのには、このことが影響していると考えられる。


これに対して、北寄りのマンダイリンやアンコーラでは政庁主導の栽培であったため、一定の収穫量が維持されていった。北スマトラさび病が上陸したのはジャワ島より遅く、1908年頃であったことも幸いしたのだろう。ジャワ島でさび病対策として広まったロブスタは、1912年、ニューヨーク取引所で「価値がない」と評価され、取引停止に至った。その後もマンダイリンとアンコーラでは、「伝統ある高品質なアラビカ」の生産が続けられた*2

そして、少なくとも1920〜30年代のアメリカで

"The best coffee in the world"; also the highest priced.

と評価されるに至っていたのである。


これに前後して、コーヒー生産地の北への拡大も始まった。バタック戦争でオランダに屈したトバ・バタック族が、本格的にトバ湖周辺でのコーヒー栽培を始め、さらに一部は北方への移民になり、中央アチェにまでその栽培を広めていったのである。少なくとも1935年頃には、「マンデリン」「アンコーラ」に次ぐ新興の産地として「トバ」の名が挙げられている。

ただし、一般の取引レベルで、これらの区分は必ずしも明確ではなかった。ネームバリューに劣る新興産地のコーヒーが「マンデリン」という名で積出されていただろうことは、想像に難くはない。また、これら北寄りの産地ではミナンカバウにあるパダンよりも、東海岸のメダン(ベラワン)の方が積出に便利であった。ミナンカバウでのコーヒー栽培の減少にこのことも加わって、パダンはかつての繁栄を失っていく。それに伴い、主にパダンから積み出されていた「マンデリン」も、別の港から輸出されるようになる。


'All about coffee'第二版の出版から7年後の1942年、太平洋戦争で日本軍がインドネシアに侵攻する。これによってオランダによる植民地支配が崩壊した。しかし同時に、日本と敵対するアメリカやヨーロッパ諸国へのコーヒーの販路も閉ざされた。およそ5年間に亘り、インドネシアからのコーヒー輸出は実質的にストップしてしまう。また、インドネシアのコーヒー農園の多くは、オランダ東インド保有する国有地を借地して経営する、という位置付けであったために、その土地所有の基盤が失われたことで、農地を巡る混乱も生じた。また、1965年9月30日に起きたクーデター未遂事件(9月30日事件)がきっかけになって起きた共産党員掃討のときには「プランテーションの内部に共産党内通者がいる」と密告されて、多くの農園関係者が虐殺される事態も生じたと言われる。

マンデリンの復活

このような激変する社会情勢によって、マンダイリン、アンコーラ地区にあった、かつての政府農園の多くが衰退していき、かつての「マンデリン」は姿を消したかに思われた……だが、それを細々と受け継いでいた者たちがいた。それがトバ湖周辺に暮らすトバ・バタック族である。

戦闘の激しかった沿岸部に比べて、トバ・バタック族の暮らす内陸の高地は比較的、戦禍の少ない方だったかもしれない。またトバ・バタック族では「ゴラット」と呼ばれる父系相続の慣習があったことから、所有者が明確な土地も多かった。現地では比較的小規模なコーヒーの個人農園で栽培されていただけでなく、他の木の陰(シェード)にコーヒーノキが植えられ、ほとんど原生林と見分けがつかない状態であったため、農園の略奪による被害もまだましな方だったろうと思われる。


またトバ湖周辺の高地であることや、シェードツリーの利用、そして小規模で分散された栽培のおかげで、偶然ながら、さび病が一斉に蔓延する事態も避けられたと考えられる。一部の、離れたところに点在した「農園」には、戦前から栽培された古いコーヒーノキやその子孫が残っていたのである。これらは恐らく、かつて高い評価を受けたマンデリンの子孫であり、現在、「クラシック・スマトラ」と呼ばれて、トバ湖周辺を中心に北スマトラの伝統品種として栽培されている。


その後、北スマトラのコーヒー栽培はさらに北上する。とりわけ、1978年から中央アチェの開発支援国際プロジェクトが始まったことの影響は大きかったと言えるだろう。このプロジェクトによって、中央アチェのガヨ地区、特にタワール湖の周辺に位置するタケンゴン地区などでのコーヒー生産が飛躍的に伸びた。同時にティムティムやアテンなどの品種も持ち込まれ、栽培される品種に変化が現れたのも、これ以降だと言えるだろう。この地で生産されたコーヒーも、当初は「同じ北スマトラのコーヒー」として、マンデリン名義で取引されることが多かった。ただし、これら北部のコーヒーについては「ガヨマウンテン」など、「ガヨ族が作った」新しい別銘柄として、販売する流れも生じている。


一方、トバ湖周辺のリントン地区などでは、同じバタック族というつながりもあることからか、比較的「マンデリン」を前面に押し出すことも多い。日本でも、1995年にUCCがリントンマンデリンコーヒー農園を、現地企業との合弁で開園していることは、ご存知の方も多いだろう。

「マンデリン」という名称

「マンデリンはまずくなった」という言葉は、いまや「長老」クラスとも言える、古くからのコーヒー関係者や愛好家からしばしば囁かれる言葉である。歴史的な経緯を踏まえて考えると、ユーカースの時代に、"The best coffee in the world"と評されていた「マンデリン」は絶えてしまってるのかもしれない、という結論にならざるを得ない。


「栽培品種」という観点から言えば、当時と同じ「クラシック・スマトラ」が残ってはいた。しかし、コーヒー生豆の品質を決定するのは品種だけではない。俗に「テロワール」と呼ばれるような、栽培される場所の気候風土の違いや、栽培方法、精製方法の違いなど、多くの要素が合わさって初めて「生豆の品質」が決定される。本来のマンダイリン地区と、元々稲作に適していたトバ地区では、恐らく気候の違いはそれなりに大きいだろう。ならば、その生豆の違いも当然それなりにあったはずだ。


現在、トバ湖周辺で栽培されているものは、名前の由来を「杓子定規に」捉えるなら、本来なら「マンデリン」ではなく、All About Coffeeに書かれていた「トバ」と呼ばれる方が妥当かもしれない。もしかしたら、中には「本来のマンデリンでないものをマンデリンと言って売るのは詐欺だ!」とか考える者もいるかもしれないが、このケースでは、個人的にはそうとまでは思ってない。

多少、違和感を感じる部分があるのも確かだが、少なくとも「マンデリンの正統後継者」としては、おそらくトバ地方のコーヒーをおいて他には存在しないだろう。かつてアチェ王国が「ムラカ王国の正統な後継」を自認したように。ガヨ地方のコーヒーも、「マンデリンの流れをくむもの」と言うことは可能だろうと思う(バタック族とは異なる民族が中心ではあるだろうが)。


もし、このことを以て「詐欺だ」というならば、責められるべきは一体誰なのか……現地の生産者なのか、消費国側の取引業者なのか、それともブランドイメージに振り回される消費者なのか……。

そう考えると、コーヒーの銘柄名を巡る問題はなかなか厄介だ。同じ産地で同じように作ったものでも、有名なブランド名がかぶさっただけで、高く取引されるようになる。「マンデリン」ほどのビッグネームであればなおさらだ。しかしその一方で、安易なブランド名だけが注目され、質の低いものまで同じ名前で出回るようになると、ブランドに対する評価自体が失墜しかねない。

スマトラでは「マンデリン」という存在が大きすぎる故に、現地の生産者も消費国側の取引業者も、ある種の「呪縛」から逃れられていないようにも見える。「マンデリン○○」「○○マンデリン」などの、よく判らないイメージ先行の銘柄名だけが普及し、産地名や農園名、品種などの情報が一切抜けたものが多く出回るのも、ある意味では、その現れなのかもしれない……なにせ「マンデリン」という名前自体が、今や産地とは無関係なのだから。


ただ、そう理解はしながらも……単なる「懐古趣味」と言われるだろうが、もし今、そのマンダイリン地区で、当時と同じクラシック・スマトラを栽培し、当時に近いだろうスマトラ式の精製法で栽培したら、ユーカースが飲んだ「マンデリン」の味が再現できるのだろうか……そう想像しただけで、実に興味がそそられる話ではないか。

*1:より早期に制度が導入されたことと、おそらくはパドリ戦争以降の混乱やそもそもの土地相続慣習の違いによって、地権者が明確ではなかったことが原因だと思われる。

*2:ただし、マンダイリン地区では、1938年にロブスタも生産されていたという記録が残っている。