イエメンへの侵攻

当時のアクスム王国は、エチオピアのみならずエジプト方面(ヌビア)やアラビア半島にもその領土を広げ、ローマ、ペルシア、中国に並んで4強に数えられるほどであった。その版図が最大になったのは4-6世紀頃である。中でもアラビア半島南部、現在のイエメンに対しては、3世紀頃から軍事的、政治的介入をさかんに行っていた。

この当時の情勢は非常に複雑である。下記のリンクが大いに参考になったので、ぜひ一読してほしい。


参考:


思い切り大胆に言えば、この当時のアクスムとイエメンの関係は、「イエメンにアクスムが侵攻 → 代官を置いて統治 → 反乱軍が代官を倒して新国家を作る → 独立後すぐにアクスムに臣属の意を示す」というのを、三回ほど(3世紀初頭、340年頃、525年……おそらく記録に残らない小さな規模の侵攻が他にもあるだろう)繰り返した後、575年にサーサーン朝ペルシアがイエメンに侵攻して終わった、という感じだ。



(西暦230年頃のアクスムアラビア半島勢力図。http://en.wikipedia.org/wiki/File:Map_of_Aksum_and_South_Arabia_ca._230_AD.jpg を参考に作成)

1回目

イエメンでは、紀元前8世紀頃には既にいくつかの小国家*1が成立していたことが記録されている。これらの小国家は互いに争い合いながら、徐々に統合され、サバァ王国(北西の内陸部)、カタバーン王国(南西の沿岸および内陸部)、ハドラマウト王国(南東の沿岸部)などが大国化していった。さらに紀元前2世紀頃にはカタバーン王国の西部部族が独立して、沿岸部にヒムヤル王国を新興した。3世紀初め頃には、これらの4つの大国が争い合っていたという。イエメンでは元々、ペルシア湾側からの陸路での交易と灌漑用のダム建設などで内陸部が繁栄していたが、それに代わって紅海交易が盛んになると、ヒムヤルやハドラマウトなど沿岸部の港を持つ国が隆盛し、サバァやカタバーンに侵攻して勢力を伸ばしていった。特に紅海に面する良港を有していたヒムヤルは紅海交易によって急成長を遂げたが、それは紅海交易の独占を狙う超大国アクスム王国にとって邪魔な存在になることでもあった。


3世紀初頭のガダラ王の時代、アクスムはサバァ王国と反ヒムヤルのための同盟を結んだ。さらにアクスムハドラマウト王国、カタバーンの旧勢力*2にも軍事同盟を呼びかけて、ヒムヤル王国への包囲網を作り上げた。アクスムの軍隊がヒムヤル王国領土に侵攻して、首都ザファールを制圧し、イエメン南西の沿岸部はアクスム王国の領土となった。これによってイエメンの勢力図は一変し、アクスム王国とその親密な同盟国であったサバァ王国の力が増した。その後、サバァ王国はハドラマウトに侵攻してこれを滅ぼした。アクスム王国は、事実上、イエメン沿岸部をその勢力下におき、紅海、インド洋交易を独占することに成功した。

しかしその後、南西部のアクスム王国領では、ヒムヤル王国の残党がたびたび武力蜂起を繰り返した。彼らは最終的に、ガダラ王の息子ベイガ(BYGT)を打ち破り、ザファールアクスム王国から奪還してヒムヤル王国を再興した。再興後ほどなくして、ヒムヤル王国アクスム王国との和解を図り、アクスムの属国となる意を示したようである。アクスム王国もまた、イエメンの直接統治は割に合わないと考え、これを受け入れた。ヒムヤル王国は、アクスムに対する属国としての姿勢を示しながら、アラビア半島内部での勢力を高めることに注力したようである。西暦275年、ヒムヤル王国はサバァ王国を滅ぼし、また旧カタバーンやハドラマウトの領土も制圧して、イエメンを掌握していったのである。


2回目

4世紀に入るとイエメン各地で内乱が生じ、それに乗じてローマ帝国がアデンを征服するなど、周辺の大国による干渉が再び大きくなっていった。アクスム王国も、先述のエザナ王の治世に再び領土拡大路線に転じており、西暦340年頃には、ローマ帝国の助けを受けて*3再びイエメンに侵攻し、紅海対岸のティハーマ地方からナジュラーンにかけての一帯を支配した(378年にヒムヤルの反乱によって撤退)。また350年頃にはエジプトの南方、ヌビア内陸部に栄えていたクシュ王国の首都メロエに侵攻して滅ぼし、さらにはヌビア沿岸部の先住民(ベガ/ベジャ)の地にも侵攻した。エザナ王の後を継いだメハデイス王の治世の終わり、西暦400年頃には、最終的にイエメン南部や現在のメッカ(マッカ、当時はマコラバとも呼ばれた)を含む一帯まで勢力下に置き、東ローマ帝国やサーサーン朝ペルシアに比肩する一大帝国になっていたという(右図*4)。

3回目

ヒムヤル王国では、西暦510年代後半に大きな政変が発生した。アクスム王国が政治介入して傀儡王を擁立し、それに反対する者との間での内乱が起きたと考えられている*5。517/8年頃、アクスムが擁立した傀儡王を、「ズー・ヌワース(Dhu Nuwas、三つ編み)」こと、ユースフ・アサール・ヤサールが放逐して即位した(521/2年)。ユースフはユダヤ教に改宗しており、即位後に力を付けると、アクスムとの結びつきが深かった国内のキリスト教徒らを弾圧し、イエメン国内からエチオピア人を追放した。

523年にナジュラーンで行われたキリスト教徒らに対する虐殺は特に苛烈を極め、クルアーンコーラン)にも「冒涜されたのは溝の人々であった」と述べられる、有名な事件であった。巨大な溝が掘られて火がかけられ、キリスト教徒らはその溝の前に集められて改宗を迫られた。そして改宗に応じなかったキリスト教徒らは、生きたまま火の中に投じられ焼き殺された。犠牲者は数百人にも上ったという。このほかザファールなどでも、キリスト教徒らやエチオピア人が虐殺された。


この事件は、アクスム王国東ローマ帝国にも知れ渡った。東ローマ帝国の初代皇帝ユスティヌス1世は、当時のアクスム国王、カリーブ王に、ヒムヤル王国の征伐を依頼した。東ローマ帝国の軍艦60隻あまりがエチオピアに送られ、それに乗って多数のエチオピア兵がイエメンに進軍した。525年、この戦争の結果、ユースフ王は死亡し、アクスム王国ヒムヤル王国を滅亡させて、イエメンを三たび自らの領土として支配するにいたったのである。


アクスム王国によるイエメンの支配は結果的に約50年間にわたって続いた。535年頃には、アクスムが任命したイエメン総督、アリアス将軍に対して、アブラハ将軍が叛旗を翻した。アクスムが送り込んだ軍勢もアブラハ将軍に寝返り、最後にはアリアスとアブラハの一騎打ちが行われた。両将軍の熾烈な一騎打ちの結果、アブラハがアリアスを打ち取ったものの、その鼻を失ったと伝えられる*6。戦いの後、アブラハはアクスムに対して恭順の意を示し、アクスムもまたこれを受け入れた。アブラハはさらに東ローマ帝国の「大帝」 ユスティニアヌス1世 にも接触を図り、その同意のもとでアラビア半島各地、特に北アラビアに遠征を行い、イエメンからシリアに繋がる交易路を確保した。


しかしその後、東ローマ帝国はサーサーン朝ペルシアと和平を結び*7、またユスティニアヌス1世がカルケドン教義を支持して単性論派を批判したことから、単性論派キリスト教アクスム王国やイエメンと、東ローマ帝国の仲は徐々に疎遠になっていった。これを背景に、西暦570年頃になるとサーサーン朝ペルシアは、東ローマ帝国の後ろ盾を失ったアラビア半島南部に介入をはじめた。そして575年、サーサーン朝ペルシアはイエメンに侵攻してアクスム王国の人々を放逐した。こうしてイエメンはペルシアの領土になり、6世紀末には正式にサーサーン朝の1州に組み込まれた。628年に南アラビア総督がイスラムに改宗してイスラム国家になるまで、ペルシアの支配下にあった。

*1:アウサーン王国、マイーン、カタバーン、サバァ(シェバ)王国、ハドラマウトが知られる。このうちアウサーンは紀元前5世紀頃、マイーンは紀元前1世紀頃にサバァ王国に滅ぼされた。

*2:カタバーンはヒムヤルの独立後に力を失い、ハドラマウトの侵攻によって領土の多くを失っていた。その後ヒムヤルが旧カタバーン領に侵攻して、その一部をハドラマウトから奪い返していた。

*3:ローマ帝国アクスムの間では、交易路の棲み分けがほぼできており、共にペルシアと対立する必要性からも同盟を結んでおり、両国の関係は概ね良好だった。

*4:http://www.alternatehistory.com/discussion/showthread.php?t=145100&highlight=rise+axum を参考に作成。

*5:イスラム教成立前史8〜大国に翻弄された南アラビア諸王国、滅亡〜 - るいネット - http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=232877

*6:イスラム教成立前史9〜570年頃(ムハンマド誕生年頃)のアラビア半島情勢〜 - るいネット - http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=232880

*7:東ローマ帝国はユスティヌス1世の頃からサーサーン朝ペルシアと戦争を続けていたが、ユスティニアヌス1世の時代に、北アフリカやイタリアなど西方の戦線が重要になったため、532年にサーサーン朝のホスロー1世と和平条約を結んでいた。この条約は540年にホスロー1世が破棄して国境付近に攻め込んだが、545年には膠着状態になり、再び和平条約が結ばれた。