変化する精製法

ゲイシャに沸いたパナマのコーヒーに、2010年以降また新しい動きが見られている。それは精製方式の変化である。近年パナマでは「ナチュラル(ナチュラル精製)」と呼ばれる手法で精製された生豆が、特にゲイシャで作られるようになっている。

ナチュラル」って何なのか

おそらくコーヒーについて多少の知識を持つ読者には、改めて説明の必要はないだろうが、「ナチュラル(精製)」とは「乾式(精製)」あるいは「自然乾燥式(精製)」とも呼ばれる、コーヒー豆の精製方法の一つである。「コーヒーの精製 (processing)」とは、コーヒーの果実(チェリー)の果肉、特に種子の周りにこびり付く粘質物(mucilage、ムシレージ*1)を完全に除いて、コーヒー豆を取り出す作業のことで、これには伝統的に「乾式(dry method/natural)」「湿式(wet method)」という二つの方法があり、さらに両者の中間的な方法があって…と話をしだすときりがないので、ここでは以下の囲み記事でざっくりとだけ解説する。より詳しく知りたい人は『田口護の珈琲大全』や『田口護のスペシャルティコーヒー大全』等の成書を参照してほしい。

元々コーヒーの栽培が始まったころはすべて「乾式」、すなわち摘み取った豆を地面に広げて乾燥させ、からからに乾涸びさせたものを割って、中から生豆を取り出す方法だった。その後オランダやフランスの手によって、コーヒー栽培が世界中に広まったのだが、1850年代にカリブ海西インド諸島で、新しい精製法として「湿式」あるいは「水洗式 (washed, full-washed)」精製法が開発された。乾式精製を行うためには、収穫した豆を最低でも数日、天日で乾燥させる必要がある。しかしカリブ海の気候では収穫期にも雨になりがちで、乾燥がうまく行かず、カビや細菌によって果肉が過度に発酵し、腐ってしまいやすいという問題があった。そこで「パルパー」と呼ばれる機具を使って果肉(パルプ)を除去し、その後一晩ほど水槽に浸けて、ムシレージを適度に分解させてから洗い流すという「水洗式」が考案された。この方法は同時に、精製処理のスピードを大幅に改善させたため、すぐに多くの産地に広まった。ただし水洗式を行うためには大量の水が必要になるため、水の確保が難しいブラジル(ただし近年の産地セラードは水の便がよくなっている)やエチオピア、イエメンなどでは乾式精製が続けられた。


乾式精製は別名を「ナチュラル(Natural, 自然乾燥式)」とも呼ぶ。以前は「washed」との対比で「unwashed(非水洗式、アンウォッシュト)」とも呼ばれていたが、この"unwashed"という語は英語圏では「洗ってない(=汚れた)」という悪いイメージにつながるため、ブラジルなど乾式精製を行う生産者などは、あまり使いたがらず、むしろ「自然=天然」という、何となく良いイメージにつながる「ナチュラル」という言葉を使いたがる傾向がある。ただし「良いイメージ」を狙ってる分ニュートラルとは言いがたい言葉であり、また天日乾燥や機械乾燥の区別なく用いられる点には留意する必要があるだろう。


両者の中間にあたるものとしては、「半水洗式(セミウォッシュト)」や「パルプド・ナチュラル」があり、パルパーによって果肉を除去した後、ムシレージを発酵させることなく機械(ムシレージリムーバー)によって除いたり、パルパーもしくはムシレージリムーバー処理した後の豆を乾燥させたりして精製する。ただしこれらの中間的方法は細部についてのバリエーションが多くて、その分類が十分に整理されておらず、呼び名も国や生産者ごとにまちまちな部分があって、今も非常にややこしいのが現状である。

元々、「ナチュラル」の代名詞と言えばブラジルであり、コロンビアや中米などの水洗式のコーヒーが「マイルド」と呼ばれたのに対して、ブラジルの乾式精製のコーヒーの香味は「ストロング」と称され(→以前の記事も参照)、性質が異なるタイプのコーヒーとして扱われてきた。ICOが定義している「(取引上の)コーヒーのグループ分け」(http://dev.ico.org/glossary.asp の"Groups of Coffee")でも、「コロンビア・マイルド(Colombian Mild Arabicas)」「アザー・マイルド(Other Mild Arabicas)」「ブラジル・ナチュラル(Brazilian Natural Arabicas)」「ロブスタ(Robustas.)」の四種類に分けられており、いわばその「四大」の一つが「ブラジルナチュラ*2」である。ブラジルの以前の大産地であったサンパウロ近郊は、水の便が悪く、水洗式精製を行うための水が不足する土地柄であった。その一方で収穫期でも比較的晴天が続きやすく、土地にも比較的余裕があったため、広大な乾燥場(パティオ)一面に収穫したコーヒーの実を広げて、比較的短期間のうちに乾燥させてしまう、効率的な乾式精製のノウハウが、ブラジルには蓄積されていったのである。

パナマでのナチュラル精製の実態

ベスト・オブ・パナマが始まる以前のパナマでは、他の中米の国々と同様、発酵水槽を用いた水洗式が精製の主流になっていた。しかし多くの廃水を生じて環境破壊に繋がる懸念*3と、おそらく上述した2001年の"The Panama Coffee Dilemma"での発酵臭の指摘などから、以降は徐々にムシレージ・リムーバーを用いたセミウォッシュトも増えつつあった。ところがここ数年、生産量はごくわずかにすぎないが、ナチュラル(乾式)で精製したものがコンテストに出品されるようになっている。オークション結果を見ると、2011年(http://auction.stoneworks.com/pa2011/final_results.html)のベスト・オブ・パナマで、色違いで表記されてるものがあるが、これはナチュラル精製したものであり、従来の精製法のものよりも高値で落札されていることがわかる。2012年のベスト・オブ・パナマでは、「ゲイシャ」「トラディショナル(=ここでは水洗式を指す)」「ナチュラル」の三つのカテゴリに分けて審査会が行われ(http://www.donpachi-estate.com/bop2012.html)、やはりナチュラルが高価で落札されている。


2011年のベストオブパナマで最高落札価格になったのは"Donpachi Geisha Natural"、「ドンパチ農園のナチュラル精製ゲイシャ」である。このときドンパチ・シニアは「実はこうして精製したコーヒーが、私たちが子供の頃に飲んでいた昔ながらのものなのだ。当時は庭や畑の片隅に豆を広げて乾かしてたものだ」と説明したそうだ。これは現在のパナマで、水洗式を「トラディショナル」と呼ぶことと一見矛盾していそうだが、そうではない。例えば、1907年のモラレスの文献を読むと、小農園ごとに水洗式や乾式など、さまざまな精製方法が行われていたことが記録されているし、1953年のカウギルの報告に見られる「生産方法が多様であった」との記述もこれを示唆している。小農園単位での生産が主流のパナマで、比較的近年まで乾式精製を続けていたところがあったのは確かだろう…とはいえ、その当時そのままのノウハウを持つのは、ドンパチ・シニアを含めて今ではごくわずかだと思われる。


ただしパナマ、特にボケテにおいてナチュラル精製を行うには難しい問題点が付随する。それは気候の問題だ。一般にカリブ海地域や中米では、ブラジルとは異なり、コーヒーの収穫時期に晴れた日が十分に続くとは限らない。特に谷間に位置するボケテ区は霧が発生しやすく、標高の高いエリアには年中霧が発生する雲霧林のようなところもあるという。天日乾燥を行うナチュラル精製の場合、乾燥期間中に悪天候が続くと乾燥に時間がかかり、最悪の場合は途中で果肉が腐ってしまう*4。このため例えば、ボケテ区の先進的な農園の一つであるママカタ農園で2010年に初めてナチュラル精製を始めたときには、気象衛星のデータを入手して晴天が続く時期を予測し、そこから逆算して豆を摘み取るという方法を使ったそうだ。また霧のかかり方は、その農園が位置する谷の向きや標高、谷の斜面のどちら側に位置するかなどによっても細かく異なるといい、これらの条件から言えば、ドンパチ農園などはボケテの中でも比較的、ナチュラル精製を上手くやりやすい場所であるらしい。ただしこれらの好条件を以てしても、やはりボケテでナチュラル精製を上手く行うことは難しく、そのためその生産量はかなり限定されてしまうようだ。

なぜ今パナマナチュラルなのか

そこまでの苦労をして、なぜわざわざパナマナチュラル精製をするのだろうか? それにはいくつかの理由が考えられる。


まずは何と言っても、パナマナチュラル精製されたゲイシャには、独特の香りが生まれるからだ。パナマゲイシャ・ナチュラルには、ウォッシュトのゲイシャに見られるシトラス系の香りと同時に、それとはまた異なる、ワインのような(Winy)フローラルでフルーティな香りが生じる。今年の5月にカフェバッハで行われた試飲会「パナマゲイシャの会」のレポート(嶋中労氏伊藤由佳子氏)も参照していただきたい。ブラジルのナチュラルの良品は、しばしばカカオやチョコレートなどに喩えられるが、同じ「ナチュラル」と言いつつそれとはかなりタイプの異なる香味で、むしろイエメンのコーヒー…往年の「モカ香」などとの共通点があるが、よりクリーンな香味だと指摘された。興味深いのは、これまであまりコーヒーのテイスティングになじみのなかったワインの専門家(伊藤由佳子氏)にこの香味が好評であった点で、新しいコーヒーファン層を拡大させる可能性を秘めているかもしれない。具体的にどんな香りなのかについては、機会がある方は是非一度飲んでみていただきたいところだが…残念ながら現在飲めるところは限られているようだ*5


現在パナマの生産者は、この独特の香りをパナマゲイシャの中でもさらなるセールスポイントにしようとしているようだが、その背景には恐らくゲイシャ自体の香りの不安定さがある。ゲイシャが話題になったのはひとえにその、オレンジやレモン、ベルガモットなどを思わせる独特の香りによるものだ。しかし同じゲイシャという品種であれば、必ずどれも同じように優れた香りがするわけではない。香りが出る出ないが、何と言うか、かなり気まぐれなのだ。生産国の違いはおろか、同じ産地の中でも標高や農園の場所の違いなどで香りの強弱には違いが生じるし、同じ農園の同じ樹であっても、年度が違って樹齢や気候条件が変わると、香りの出方が変わってしまう。また、この香りを最大に引き出すためには焙煎も大きく影響する。煎り止めのポイントがかなりシビアで、ベストの煎り止めポイントから少し進んだだけで、覿面に香りが消えてしまう。また焙煎した後、十分にオレンジフレーバーが出ていたはずなのに、一晩経ったら急に抜けてしまうことも、過去のパナマゲイシャのカッピングで実際に起きたそうだ。これに対して、このナチュラルの香味は精製の段階でのコントロールがある程度可能であり、またどうやら、オレンジ/レモンフレーバーに比べると若干遅い段階まで残りそうで、煎り止めが少しぶれても、ある程度のフォローが可能になるというメリットも生じていそうである。

*1:日本では英語の発音から「ミューシレージ」という表記を当てる場合も多いが、生物学分野では通常「muci-」には「ムシ」もしくは「ムチ」という表記を用いるのが大半なので、学術上での通例に従っている。

*2:ただしここで言う「(取引上の)ブラジルナチュラル」には、ブラジル、エチオピアパラグアイのコーヒーが該当するので注意

*3:特に1999年以降、ボケテ区は風光明媚なことを売りとして、保養や退職者の移住を推進しているため、環境保全は重要な要素となっている。

*4:このため、場所によってはいわゆる「ハニー精製(果肉をやや残すパルプドナチュラル)」ですら難しいという。隣国のコスタリカの方が条件がよい地がまだある方だそうだ。

*5:例えば、2012年の4-5月に京都のコーヒーチェーン、小川珈琲が行った「ゲイシャ飲み比べキャンペーン」では、パナマゲイシャ・ナチュラルが期間限定で提供された。近くの店舗に飲みに行ったが、確かにこのナチュラルの香味がきちんと出ていた。