静かなパナマ

その後、ユーカースが"All about coffee"の初版を著した1922年になっても、パナマのコーヒー事情はこの当時とほとんど変化していなかったようだ。パナマのコーヒー産地としてはチリキ県ボケテ区の名前のみが挙げられており、「もっぱら国内消費用に生産されており、海外では無名」と記載されている。パナマでの栽培は基本的に、入植者自身による比較的小規模な農園の形態*1を取っていたところが多く、大農園は特に収穫期の人手不足に頭を悩ませており、それがボトルネックとなって生産量はごくわずかに限られる状況であった。


1929年、世界恐慌を受けて欧米でのコーヒー輸入量が激減し、コーヒー価格が世界的に暴落、世界のコーヒー事情は一変した。このことがパナマに与えた影響は、ブラジルやコスタリカなど当時の生産大国に比べると、「相対的には」そこまで大きくはなかったようだ。生産者がダメージを与えたことに変わりはなく、1932年頃には、多くの生産者が負債を抱えて苦境に立たされた。しかしパナマ政府が保護政策を打ち出し、国立銀行がコーヒーを抵当に生産者に貸し付けを行い、仲買抜きで直接取引を行う協定を結んだ結果、大きなダメージには至らなかったようだ。1935年にユーカースが"All about coffee"の第二版を著した中でも、恐慌前の1922年当時の評価と大きな違いはみられない。あえて違う点をあげるならば、国内消費用だけでなく、北欧(ノルウェースウェーデンデンマーク)に少量輸出されるようになった点と、豆の記述から品質が若干向上したことが伺える点くらいだろう。またこの頃から、ボケテ区には第二次の入植ラッシュが訪れ、徐々に生産が拡大していったことも伺える。

*1:中南米のコーヒー栽培は、当初、カリブ海グアテマラなど奴隷制度や小作農的な雇用者の労働力を利用した地域で発展した。後に奴隷解放が進むと、これらの地域では労働力不足が深刻になり、当初からヨーロッパ入植者自身が労働の中心となっていたコスタリカや、移民労働への移行にスムーズに成功したブラジルが台頭するようになった(19世紀半ば〜世界恐慌まで)。パナマは栽培開始時期がかなり遅く、またコスタリカ型の入植者による労働が中心であった。