『椏久里の記録』

「椏久里(あぐり)」は、1992年に福島県飯舘村の市澤秀耕さん、美由紀さん夫妻が創業した自家焙煎コーヒー店です。二年前の震災による原発事故で、飯舘村は計画的避難地域に指定され、椏久里も休業を余儀なくされました。震災後、福島市野田町に新しく「椏久里福島店」が開業しています。


「名店」と呼ばれたコーヒー店原発事故による避難と、福島での新店舗開業は、震災復興の一つのかたちとして、ときどき新聞などにも取り上げられてきたので、どこかで聞いたことがある人もいるでしょう。

今回、その椏久里の市澤秀耕さん、美由紀さん夫妻が書かれた本が出版されました。

  • 「山の珈琲屋 飯舘『椏久里』の記録」 市澤秀耕+市澤美由紀(言叢社)ISBN: 9784862090447 定価1680(本体1600)円

 http://www5.ocn.ne.jp/~gensosha/saishin/coffee-saishin2.html



#3/11現在、Amazon紀伊国屋Bookwebでは扱ってないそうですが、近日入手可能になる予定だそうです(http://blogs.yahoo.co.jp/cafeagrisi/folder/126581.html


この本は、原発事故後に福島市野田町で「椏久里福島店」を開店した当時の記録から始まり、飯舘村で椏久里を創業した頃からの足跡と、3.11以降の飯舘村で起こったことの記録、そして再生に向かう想いが綴られています。一軒のコーヒー屋の歴史の記録であり、また原発事故に直面した人々の生の記録でもあります。

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この本のメインテーマの一つは、「椏久里」という一軒のコーヒー屋の歴史の記録です。


椏久里のある飯館村阿武隈山地北部の頂上付近の「過疎地」とも言える立地で、開店時には「こんな山の中でコーヒー屋なんてやっていけるのか」という周囲の声も大きかったそうです。しかし『よいコーヒーを、よい空間で』というモットーの下、『よいコーヒー』作りに専念し「こんな山の中」だからこその『よい空間』で提供することで、たった一店舗、数名のスタッフで月に1トンの焙煎豆を販売するほどに成長した……コーヒー関係者ならばこの数字の凄さがわかるでしょうが、ぴんと来ない人はだいたい自家焙煎店の焙煎豆が「100g 500-600円」程度だ(銘柄にもよる)と考えてもらえばいいでしょう。名実共に福島屈指の名店であり、「地域密着型」というのはこういう店にこそ相応しい言葉だと思います。


「椏久里(あぐり)」という店名は、「agriculture」の頭文字にかけて名付けたそうで、最初のうちは農家との兼業で野菜販売などもしながら「半農半珈」みたいなスタイルだったそうです。立地も特殊ならばそのスタイルも特殊で、喫茶店業界の常識から言えば「成功のセオリー」からはとてもかけ離れています。それでも上述のような名店が育った…そういう意味ではこれからカフェ開業を考えている人の参考になる一冊だと思います。

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そしてこの本のもう一つの大きなテーマが、原発事故の記録です。


震災による原発事故後、津波被害や原発事故の影響が大きいと考えられた双葉郡などでは早期に避難指示が出されたそうですが、飯舘村は4/22になって計画的避難地域に指定されました。事故後まもなく、市澤さんたちは自主的に一次避難し、時折様子を見るため集落に戻る生活が続いたそうですが、その間に見聞きした飯舘村の人々の消息、当初の情報の少なさや国の対応によって右往左往させられ不信が強まる状況などが描写され、当時の様子を伺い知ることができます。


また現地で当時どのような説明がされたのかも記録されています。原発事故避難に直面した当事者でありながら、徒に感情に走るのではなく、あくまで冷静かつ客観的な視点で、記述に徹すべきところはきちんと記述に徹して書かれているため、おそらく将来、記録資料としても価値が生まれると思います。また原発問題全体に対しても単なる感情論的な反原発論ではなく、一次資料を参照してその利点と問題点を分析的に考えながら述懐しています。 -- この点だけでも巷にあふれてるどっかの有名人が書いたセンセーショナルな「原発本」より、よっぽど読む価値があると思います。


そして事故後、福島市内に新店舗を出し、椏久里福島店を開業することになった直後の慌ただしい頃の記録へと続きます。

開店に当たって周りの人々に助けられ支えられる一方で、また憩いの場として椏久里が周りの人々の支えとなる -- それはまさに「地域密着」であり、また単なる言葉だけではない「カフェの社会的な役割」というものを何よりも如実に物語り、実感させてくれました。やがて慌ただしい日々が過ぎ、改めて震災と原発事故によって失ったものについての想いを語り、そして将来に想いを馳せながら、現在の椏久里の日々につながっていきます。

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「自分たちに真に寄り添った行動なのか否かを、被災者の心眼は見分けている」(p.184)……「レビュー(書評)」と銘打ち、本書の紹介と感想を…と思って書き始めてはみたものの、それが果たして「真に寄り添った行動」なのかどうか、自分でもよくわかりません。

本書の帯書きにはこう書かれています:

  • 原発事故避難の危機にたちむかう、大切な仲間の記録です。たくさんの人に読んでほしい(カフェバッハ、田口護氏)」

これと同じく、ただただ「多くの人に『椏久里』という店の記録を読んでほしい」というのが本心です。一人でも本書に興味をもってくれる人が現れるなら、それに勝る喜びはありません。

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