愛と野望のナイルロブスタ
#ロブスタの歴史(前編):ロブスタの起源と「発見」の経緯まで
カネフォーラ種(通称、ロブスタ)の起源が「どこか」ということについては、説明が結構難しい…判ってないわけではないのだけど、その大元は「西中央アフリカ一帯」ということになる。
大雑把にいうと、500万年前に現在のカネフォーラ種の直近の祖先となる植物が、このあたりのどこかで生じ、西中央アフリカ一帯に広まったと考えられる。その後、300万年前から1万年前まで続く氷河期の時代になると、この一帯も気候変動に見舞われ、わずかにコロニー状に残った森林に分断されて、一部が生き残ったと考えられている。
その結果、同じカネフォーラであっても、わずかに遺伝的に異なるサブグループが存在している… http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19607674 によると、5つのサブグループに分けられている:A(コンゴ〜西アフリカまで)、B(中央アフリカ)、C(カメルーン南部)、D(コートジボワール)、E(カメルーン南部〜コンゴ共和国北部) 。
アラビカがエチオピア南西部の森林地帯で氷河期を乗り越えたのと同様、「ロブスタ」もまた氷河期を乗り越えた…しかも何箇所かに分かれて。その後、氷河期が終わると、その「避難場所」から周辺へと繁殖していったと考えられる。ロブスタが各地で広がるに伴い、それぞれの地域に分かれたものが再び交配しあい(Dを除けばいずれも地理的隔絶がなく、他家受粉なので交配の頻度は自然と高くなろう)、また現地のヒトの手によって栽培されて広まった結果、現在では、「ロブスタ」の起源がどこにあったのかは答えづらい……「上述の5箇所のいずれか」と答えるより他にはないのだ。
さて「ロブスタ」は"robust"というその名が示す通り、しばしば粗野で野性的、ある意味「原始的な」コーヒーとして捉えられがちだが、ヒトに発見され使用されるようになってからの歴史は浅い。その最初の発見は、1858年頃とされている。「暗黒大陸」アフリカが、リビングストンをはじめとする西洋人探検家によって、探索されはじめた、まさにその頃である。
探検隊はアフリカの奥地に野生のコーヒーノキを見た!!!(らしい)
「愛と野望のナイル」という映画(1990年公開)がある。この映画では、アフリカ奥地を探検し、ナイル川の源流をつきとめることに情熱を燃やした二人の探検家と、その確執がテーマになっている。もちろん映画はフィクションを織り交ぜたものになっているが、実際の経緯は以下のようなものであったらしい。
一人は「バートン卿」こと、リチャード・バートン。白人として初めてメッカからの生還(当時アラブ人以外は生きて帰れぬと言われていた)を遂げ、「千夜一夜物語」や「カーマスートラ」などの翻訳でも知られる著名人。もう一人は、無名だが野望にあふれた英軍士官ジョン・ハニング・スピークであった。
スピークとバートンは共に、ナイル川の源流を探し当てるべく、東アフリカから中央アフリカの奥地(大湖沼帯)に向けて探検を行った。困難な探検の末、やがて二人は、タンガニイカ湖に辿り着く。このとき病に罹っていたバートンはここがナイル川の源流だと考えて、帰路に付くことを提案したが、現地人から「もう一つの湖」の存在を聞いていたスピークは、そちらを探検するべきだと主張し、どちらも一歩もゆずらなかった。
結局、仲違いの末にバートンは元来た道を引き返し、スピークは「もう一つの湖」を目指しながら、帰路で合流することにした。そして、スピークはその道でもう一つの、アフリカ最大の湖を発見したのだ。しかし、そのときの記録が不完全であったため、結局バートンを納得させることはできず、二人の間に出来た溝は埋まることがなかった。
さらにいざこざは続く。帰路、バートンは再度熱病に臥し、イエメンのアデンでの静養を余儀なくされる。その隙に、スピークは一人で英国に凱旋し「ナイル川の源流を発見した」というスピーチを大々的に行った…もちろん、自分が見つけた湖こそがその源流だとして、ビクトリア女王の名前から「ビクトリア湖」と名付けて。
手柄を独り占めされた形のバートンは当然激怒し、二人の確執は決定的なものになった。帰国後スピークはすぐに、ジェームス・アウグスツス・グラントを伴い、「ビクトリア湖からナイル川の注ぎ出す場所」を探し出す旅に出た。その結果、ビクトリア湖北部のリポン滝を見つけ、そこからナイル川へと下っていくことで、その探索に成功した……しかし、バートンとの論争に結着を付けることなく、1864年にスピークはピストル自殺を遂げる。
その後、ナイル川水源の探索はリビングストンとスタンリー*1によって、ビクトリア湖に注ぎ込む川の存在が明らかになったことで、スピークとバートンの両者ともに間違っていたことが判明して、結着がついた。
この当時の「手記」は、今はProject Gutenbergで読む事ができる。
- スピークの"The Discovery of the source of the Nile"(ナイル川の源の発見)http://www.gutenberg.org/files/3284/3284-h/3284-h.htm :スピークによるグラントとの探検手記
- スピークの"What Led to the Discovery of the source of the Nile" (ナイル川の源の発見を導いたもの) http://www.gutenberg.org/etext/8417 :スピークによるバートンとの探検〜ビクトリア湖発見の手記
- バートンの"First Footsteps in East Africa" http://www.gutenberg.org/etext/6886 :バートンによる手記
いずれの手記においても"coffee"の文字が見られるが、当時の東アフリカ(現在のタンザニア付近)では既に植民地政策に伴うコーヒー栽培が行われていたし、実際に"coffee cultivation"という記載も彼らの手記に認められる。しかし、スピークの遺した手記に、興味深い記載を見いだすことができる。
On the return to Unyanyemb〓, a native of Msalala told me that he had once travelled up the western shore of the N'yanza to the district of Kitara, or Uddu-Uganda, where, he says, coffee grows,(中略) he described the island of Kitiri as occupied by a tribe called Watiri, who also grow coffee;(攻略)
("What Led to the Discovery of the source of the Nile" より)
(略) and a large bundle of country coffee. This grows in great profusion all over this land in large bushy trees, the berries sticking on the branches like clusters of hollyberries.
("The Discovery of the source of the Nile" より)
これらの記載がビクトリア湖南西部〜西部にかけての、カラグエ(Karague, Karagwe)や、ウガンダで残されている。特に後者は「(アラビカに比べ)背が高く、実が多く付く」というロブスタの特徴を彷彿とさせるものがある。実際、地域的に見ても、この辺りは十分ロブスタの自生可能なエリアであり、彼らが見聞きしたコーヒーノキがロブスタであったとしても不思議ではない。スピークはまた、"chew coffee"、すなわちこれらのコーヒーの実を噛んで利用した、と思われることも書き残しており、そうだとすれば、西洋人としては初めてロブスタコーヒーを利用した人物だと言えるかもしれない。
ただし、もちろんこれらはあくまで推測の域を出ないことである。ロブスタが植物学的に注目されるようになるまでは、あと40年近く待たなければならない。
*1:リビングストンは途中で消息を絶ち、探索に当たったスタンリーが彼を発見。源流探索の途中でリビングストンは命を落とすが、スタンリーが彼の遺志を継いで、水源となる川の発見に成功した。
「カネフォーラ」の発見
#ここからロブスタの歴史(後編):学名を巡る混乱へ
さて40年近くの時が流れ、時代はまもなく20世紀になろうかというとき。実はこの頃、世界のコーヒー栽培は脅威に見舞われていた。「コーヒーさび病」である。1861年、中央アフリカで最初に発見されたコーヒーさび病は、インド洋を渡ってスリランカに到達、そこからインド、ジャワへと瞬く間に広がり、各産地に壊滅的な被害を与えた。スリランカに至っては、コーヒー栽培を断念して茶の栽培へ切り替えられたのは周知の通り。
当然ながら、さび病に対して有効な防除策が検討され、またさび病に対して耐性を持つコーヒーノキの探索も精力的に行われた……当初は耐性を認められ有望視されていたリベリカ種も、次々と「新型」が現れるさび病の前に屈してしまい、ジャワやインドのコーヒー栽培の壊滅も目前と思われていたその時、「すべてのさび病に耐性を持つ」ロブスタが発見され、ジャワでの栽培が行われるようになった…これにより、イエメンに次いで歴史が古い*1ジャワでのコーヒー栽培は、首の皮一枚で救われたのである。
…数年だけ時代を遡ろう。
19世紀の終わり頃、ジャン=バティスト・ルイ・ピエール http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Baptiste_Louis_Pierre というフランス人植物学者がいた。ピエールは、アジア(特にベトナム:仏領インドシナ)の植物に造詣が深く、サイゴン動植物園を設立したことで有名だが、その一方、西中央アフリカ、ガボンの植物の研究にも熱心であったことはあまり知られていない。ピエールは、ガボンの植物標本の蒐集家たちと交流して、多くの植物標本を集めた。あまりにも多くの標本があったために、自宅とは別に保管のための家を借りていたとも言われ、後にパリ自然史植物園に寄贈した際には、アジアとガボンの標本だけで20,000点を超えていた。何せこれだけの数の標本だから、その一つ一つを細かく分類し、学名を付けるまで手が回らなかったことは想像に難くない。
今日の「ロブスタ」…正しくはカネフォーラ種は、このピエールの標本の中に埋もれていたものである。ガボンの蒐集家の一人で、宣教師であったクライン(Klaine T.J.)からピエールに贈られ、パリに持ち込まれていた標本の中にそれはあった。それを見いだしたのが、ドイツ人植物学者、アルブレヒト・フレーナー http://www.ipni.org/ipni/idAuthorSearch.do?id=2931-1 である。彼はピエールの標本の中から、Coffea属の植物を見つけ出し、C. canephoraという学名を付けた。1897年のことである。
「学名を付けた」と言っても、具体的なイメージがしづらいと思うが、ある植物の学名が正式なものと認められるには、一般に次のような条件が必要になる。(1)「基準となる、一つの植物標本」、(2)「特徴の記載」、(3)「ルールに従って付けられた学名」をセットにして、(4)植物学分野の論文誌に掲載する、というものだ。ピエールは標本を収集して残し(ひょっとしたら特徴の記載まで行っていたかもしれないが)、正式な形で学名を発表しておらず、フレーナーが「代わりに」最初の学名を付けて発表した、という扱いになる。C. canephora Pierre ex A.Froehner の「〜ex〜」というのはそういう場合の命名者表記法だ。
このときの「カネフォーラ」は、あくまで植物標本しか存在しないものであり、「今日のロブスタ」と呼びはしたが、いわゆる「ロブスタ」と直接のつながりがあるわけではない。どちらかというと学術的、植物学的な観点から収集された標本に過ぎなかった。
可哀想なエミール
ちょうどこの頃、一人のベルギーの植物学者が、コンゴで大規模な現地調査を行っていた。エミール・ローラン http://www.br.fgov.be/PUBLIC/GENERAL/HISTORY/laurent.php その人である。彼は1895年、コンゴの奥地で「恐らく新種と思われるコーヒーノキ」を発見し、押葉標本 http://www.br.fgov.be/RESEARCH/COLLECTIONS/HERBARIUM/detail.php?ID=327562 を作成した。また、1898年に標本と、その生きた植物を本国ベルギーに送ったとされる。この植物は、ローランの弟子であった「もう一人のエミール」、エミール・デ・ウィルデマン http://www.br.fgov.be/PUBLIC/GENERAL/HISTORY/dewildeman.php と、(All about coffeeの記述を信じれば)ベルギーのとある園芸会社の手に渡った。
先に名付けたのは、デ・ウィルデマンである。彼は、コンゴのエミール・ローランに敬意を払い、この植物に彼の名前を付けた…C. laurentii De Wild.、「ローランのコーヒーノキ」である。一方、これに少し遅れて、園芸会社に渡った方には、同じくベルギーの植物学者であったルシアン・リンデン(植物学者として名高い「リンデン」…ジャン・ユーリス・リンデンの息子)が、C. robusta L.Linden と名付けた。「ロブスタ」、あるいは昨今なら「ロバスト」と言った方が通じる人もいるだろうか、頑丈さや野生のたくましさ、あるいは「粗野で野蛮な」と言ったイメージの言葉である。おそらくは、単純にアラビカに比べて見た目が野性的なところから名付けられたのであろうが、この言葉のイメージが、後の普及と名前の混乱につながっていく。
やがてベルギーでの研究により、この新種の植物がさび病に対して強い耐性を持つ可能性が示された。そこで、この園芸会社からジャワに向けて、数十本の「ロブスタ」の苗木が送られ、試験的な現地栽培が行われた。その結果も極めて良好なものであり、まさに「ロバスト」…多少の外的要因に負けない頑強さ…な新しい「コーヒーノキ」として、ジャワでの転作が大々的に進められていったのだ。
その後、かのユーカースは、"All about coffee"の中でこのように記している。
Emil Laurent, in 1898, discovered a species of coffee growing wild in Congo. This was taken up by a horticultural firm of Brussels, and cultivated for the market. This firm gave to the coffee the name Coffea robusta, although it had already been given the name of the discoverer, being known as Coffea Laurentii.
(Ukers "All about coffee", p.144)
つまり、この当時はまだ「ロブスタが通名で、学名はCoffea laurentii」という位置付けだった。このときはまだ、「二人のエミール」の名前は、片や種小名として、片や命名者名として、細々と知られていたと言えるだろう。
ちなみに「カネフォーラ」については
Among the robusta varieties, Coffea canephora is a distinct species, well characterized by growth, leaves, and berries. The branches are slender and thinner than robusta; the leaves are dark green and narrower; the flowers are often tinged with red; the unripe berries are purple, the ripe berries bright red and oblong. The produce is like robusta, only the shape of the bean, somewhat narrower and more oblong, makes it look more attractive. Coffea canephora, like C. robusta, seems better fitted to higher altitudes.
(Ukers "All about coffee", pp.145-146)
ということで、ロブスタの変種として扱っている。
「二人のエミール」に、ある意味とどめを刺したのは、さらに40年ほど後に活躍したフランスの植物学者、シュバリエ http://en.wikipedia.org/wiki/Auguste_Chevalier である。コーヒーノキの分類において、シュバリエの貢献は大きい。1947年、シュバリエは当時120種類ほどの種が提唱されていたCoffea属を再整理し、およそ半分の60種強にまで減らすとともに、それらをEucoffea, Mascarocoffea, Argocoffea, Paracoffeaという4つの節にまとめ直し、さらにこのうちEucoffeaについて、Erythrocoffea, Pachycoffea, Melanocoffea, Nanocoffea, Mozambicoffeaの5つの亜節を設けるという、新しい分類体系を提唱した。この体系は、途中いくつかの大幅な改変が加えられたものの、2006年にA.P.Davisが新たな分類体系を提唱するまで、基本的に継承されつづけたものである。
カネフォーラ/ローレンティイ/ロブスタの扱いについて、シュバリエはまず1942年に、ローレンティイの学名を、C. canephora var.laurentii (De.Wild.) A.Chev. とすることを提唱した。つまり「ローレンティイは、カネフォーラの一変種である」としたことになる。そして、さらに分類体系の見直しと時を同じくして、1947年にはロブスタについても、C. canephora subvar. robusta (L.Linden) A.Chev. という学名を与えた。「ロブスタはカネフォーラの一亜変種である」という扱いである。これら一連の「改名」によって、ロブスタとローレンティイだけでなく、カネフォーラもまた種のレベルでは同じ植物と見なされることになった。そして、正式な学名は必ず「早い者勝ち」で決まるという原則から、すべてがC. canephoraという学名に統一されたのである。var.やsubvar.などの扱いについては、種ごとに様々であるが、シュバリエによる統一以降、カネフォーラ種について種以下のレベルが議論されることはほとんどなくなった*1。
以上のような経緯から、C. robustaという学名は正式なものではなく、シノニム(同種異名)の一つである、または(シュバリエがかつて名付けたが、現在は使われることのほとんどない)亜変種名である、というのが「植物学上の」位置付けになる。ただし、依然として「ロブスタ」の名は、栽培地では多用されており、通名あるいは、ある意味で「栽培品種名」のような扱いを受けている。研究者であっても、そのような「現状」をあたら無視できるような状況にはなく、学術論文でも「正式な表記」の場合はC. canephoraを用いながら、「いわゆる"Robusta coffee"」という類いの注釈を初出時に付けるのは珍しくない……そのような形で「ロブスタ」の名は残ったが、「ローレンティイ」の名は失われてしまった。
ちなみにエミール・ローランは、その後もコンゴでの調査を続け、その途中で命を落とした。1904年のことである。コーヒー関連の年表を眺めても、たった一言「1898年、エミール・ローランがコンゴでロブスタを発見」と書かれているのが関の山だ。コーヒーに携わるもので「エミール・ローラン」の名を知るものは、恐らく、今では極めて僅かだろう。
しかし、彼が遺した「さび病に強いコーヒーノキ」の子孫は、今も世界中で栽培され、全生産量の20〜30%を占めている。ジャワのコーヒー栽培を救い、さらには1970年以降の、中南米での「第二次さび病パンデミック」の時にも、ティモール・ハイブリッドの起源として、間接的に世界のコーヒー栽培を救ってきた……その木は彼の名にちなんでその弟子が名付けた「ローランのコーヒーノキ」という名ではなく、今も「ロブスタ」と呼ばれているが。
*1:唯一、「コニロン」の扱いが人によって分かれるが、植物学上は変種や品種といった明確な区分はなく、栽培品種としての扱いだ。