ロブスタ:「苦渋」の選択

セイロンやインドでのさび病の蔓延に対し、当然ながら現地およびイギリスは何とか食い止めようとした。当時のイギリスで植物疫病研究の第一人者であった、マーシャル・ウォード (http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Marshall_Ward)も現地に乗り込んだ。ウォードは、さび病の病原体を発見し、それが風に乗って広まること*1を明らかにしたが、ついに具体的な解決には至らなかった。ウォードは「モノカルチャーをやめれば改善されるはずだ*2」と進言したが、結局それはセイロン現地では採用されなかった。


ともあれ、もはや東南アジアのさび病蔓延を食い止める方法はないと考えられた。そこで人々は、従来のアラビカ種ティピカに代わり「もっと丈夫なコーヒー」の探索をはじめた。

リベリカ

最初に見つかったのは C. liberica、リベリカ種である。1874年に発見されたリベリカは、インドでの試験栽培の結果、コーヒーさび病に対する耐性を持っていることが判明し、アラビカに代わるものとして期待された。…しかし、その期待は長くは続かなかった。当初は確かにさび病に抵抗したリベリカであったが、数年後には、さび病の餌食になってしまう。


後に判ったことだが、コーヒーさび病にはいくつかの「型」が存在したのだ。現在までに、コーヒーさび病にはI〜XXXXの40種類もの型が知られている。当初、東南アジアに蔓延した型のコーヒーさび病に対し、リベリカ種は抵抗性を持っていたが、次々と現れる新型さび病に対しては無力だったのだ。リベリカは「三原種」とも呼ばれたように、世界中の産地から注目されていたものの、その最大の持ち味だったはずの耐病性が役に立たなくなると、見向きもされなくなっていった*3

ロブスタ

そして19世紀の末にロブスタ(カネフォーラ種)が発見される。この発見の経緯については、以前の記事(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100510)に譲ろう。

ともあれ、エミール・ローランから送られた苗木を入手したベルギー(ブリュッセル)の園芸会社は、この木がコーヒーさび病に有効であるかもしれないという見込みを付けると、1902年にはジャワでの現地栽培試験に乗り出した。その結果、この種が全てのさび病に対して優れた耐病性を示すことを明らかにしたのである。


さてこの「優れた耐病性」のロブスタだが、残念なことにその香味上での品質は「優れた」とはいかなかった…それどころか、どんな質の悪いアラビカよりもさらに劣ったものでしかなかった。苦味と渋みが強く、しかも独特の異臭がする。そんなコーヒー豆しか取れないものだったのである。


当然、このままでは使い物にならないということで、高品質のアラビカとの交配実験が行われた。アラビカとロブスタの「合の子」を作り、その中からアラビカの品質の高さと、ロブスタの耐病性の高さの両方を持った子孫を選抜しようとしたのである。しかし、この試みは成功しなかった。その理由はずっと後になって判ったのだが……ここで一つ思い出して欲しい、アラビカとロブスタの染色体の数が異なることを。アラビカは44本の染色体を持つ四倍体に相当*4し、ロブスタは22本の染色体を持つ二倍体である。この両者を交配させた場合、その「合の子」ができることはできるのだが、それは通常、三倍体になる。そして三倍体の植物では、減数分裂が正常に行われないため、「種無し」になるのだ。このことは、例えば種無しスイカや種無しブドウの作出で応用されている……これらの果物では「種無し」になることで食べやすくなるのだから、何の問題もないのだが、コーヒーではそうはいかない。コーヒー豆は「種子*5」を利用するのだから、種のないコーヒーの実では、いくら実ったところで役に立たない。「種無しコーヒー」になってもらってはお話にならないのだ。


かくして、「ロブスタの耐病性とアラビカの高品質」を兼ね備えたコーヒーノキの作製は(この時点では)上手くいかなかった。そこで、ジャワは「苦くて渋い」ロブスタへの転作という、まさに「苦渋の」決断を下すことになる。やがて、同様に低地での栽培を中心に行い、さび病の被害が広まったインドやベトナムから、アフリカに至るまで、ロブスタ栽培は広がっていくことになる。

*1:ただしこの後、これに反対する説が唱えられる…最終的にはウォードが正しかったのだが

*2:実際シェードツリーがあれば、被害は小さくなることが後に報告された。直接雨滴がかかりにくくなるため、と言われる。

*3:唯一の例外は「エキセルサ」である。

*4:異質四倍体、複二倍体とも

*5:厳密には種子から種皮を除いた胚乳