インドにおけるコーヒーの歴史

コーヒーの栽培はイエメンにおいて始まり、現在では世界中に広まっている。その栽培の伝播においては、オランダやフランスをはじめヨーロッパの国々が大きく貢献したことは良く知られている。しかしその一方、「いわゆるヨーロッパ人」以外の手によって広まったルートについてはあまり知られていない。

コーヒーはヨーロッパ人に知られる前から、イスラム教徒の間で広まっていった。多くは単に「飲み物」として、あるいはその直接の原料となる「コーヒー豆」として広まっていったものであるが、「コーヒーノキ」あるいは「コーヒー栽培」そのものも、部分的にではあるがイスラム教徒の手で広められていった。一つには、イエメンでの栽培の流れがまさにそうであったし、もう一つがインドへの伝播である*1


インドにコーヒーノキを伝えたのは、ババ・ブダン(Baba Budhan, Baba Budan)というイスラム教の行者である、ということについては、概ねコンセンサスが得られたものだと言えるだろう。ただし、その伝播の年については諸説ある。いずれも1600年代であることに代わりはないのだが、1600年、1650年頃、1670年、1695年、という説が存在する…が、少し調べてみた感じでは、1670年という説が現在では有力なようだ。


そもそも、この「ババ・ブダン」とはいかなる人物なのか。それを語るために、インド南西部のカルナタカ州チッカマガルールにある「ババブダンギリ聖堂」(Bababudangiri shrine, ババブダン廟 Baba Budan Dargah)について軽く触れておきたい。詳細については、http://www.truthindia.com/page22.html および http://members.tripod.com/baba_budan_hills/dada.html を併せて参照されたい。

*1:さらに付け加えれば、オランダ人以前にイスラム教徒がインドネシアコーヒーノキを伝えていたという説もある。ただし、この説の真偽についてはよく判らない。

「民衆のヒーロー」ダダ・ハヤート

ババブダンギリ聖堂は、イスラーム初期に、インドに初めてイスラム教を広めたとされる「ダダ・ハヤート Dada Hayat」を奉った場所であった。ダダ・ハヤートは本名、アブドゥル・アジーズ・マッキ(Abdul Aziz Makki、Hazrat Sheikh Abdul Azeez Mecci)。メッカの近郊ターイフに生まれたキリスト教徒であったが、預言者ムハンマドがメッカで布教を始めた7世紀初頭に彼の直弟子となり、イスラム教に改宗した。後のスーフィズムの起源とも言われる、"Ahl al-Suffa"と呼ばれるグループの一員で、ムハンマドが旅行や戦いに向かうときには、彼の旗を持って付き従っていたと言われている。


ダダ・ハヤートは、当時混乱していた南インドの情勢を憂いたムハンマドの命を受け、「カランダール Qalandar」と呼ばれる放浪のイスラム伝道師として、インドに赴いたと言われている。彼が辿り着いたのはカルナタカ州の山地にある洞穴であった。ここで彼は水を求めて神に祈りを捧げ、神はその祈りに応えて、地中から水がわき出したという。

そこにやってきたのがヒンドゥー教の僧侶(バラモン)である。実はこの洞穴は、ヒンドゥー教の信者が祠として使っていた場所でもあったのだ。奇跡を目の当たりにしたバラモンは、ダダ・ハヤートを「ダッタトレーヤー」(ヒンドゥー教の主神であるシヴァ、ビシュヌ、ブラフマーの三神が一つになった神)の生まれ変わりだと考えて彼を崇めた。こうして、ダダ・ハヤートはこの洞穴を本拠地にして布教活動を始めた。洞穴の前には多くの民衆が集まりイスラム教に改宗して、彼を熱狂的に支持した。


これを面白く思わなかったのが、当時南インドを支配していた、封建領主たち(http://en.wikipedia.org/wiki/Palaiyakkarar)であった。彼らは以前から民衆を弾圧しており、ダダ・ハヤートが赴いたそもそもの理由は、彼ら領主を諌めて、この地に平和をもたらせ*1というムハンマドの命令があったからだ。領主たちはダダ・ハヤートとその信者を殺害ないし追放しようとしたがその企みはことごとく失敗に終わる。しかし、その結果さらに被支配層である民衆の弾圧を強め、ときには領民たちを拷問にかけることすらあったという。ダダ・ハヤートの元には、こういった圧政から逃れて来た者たちがさらに集まっていった……ただし、そのすべてがイスラム教への改宗を行ったわけではない。伝統的なヒンドゥー教を捨てることに苦悩した者も多く混じっていた。しかしダダ・ハヤートは彼らの葛藤を理解し、改宗を強制する事なく、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒を問わず分け隔てなく接したと言う。ダダ・ハヤートのいちばんの目的は、民衆をイスラム教に改宗させることではなかったのだ。


こうして、ダダ・ハヤートは元々はイスラム教の聖者でありながら、ヒンドゥー教の被支配層にも崇められ、「圧政者と戦う民衆の味方」として英雄視されるようになったのである。ダダ・ハヤートがその後、どのような「人生」を送ったかについての記録は残されていない……伝説によると、ダダ・ハヤートはあるときを境に「聖地」である洞穴の中に入っていったと言われている。この洞穴の奥は中央アジアや、遠くアラビア半島にまでつながっていて、彼は洞穴を通って聖地メッカに戻っていったのだと伝えられた。現地では、ダダ・ハヤートは今でも生き続けており、民衆が窮地に陥ったときに再び現れ、人々を救うという伝説が残っているそうだ。

*1:これはイスラム教から見た、ヒンドゥー教におけるカースト制度への批判を意味するとも思われる。

ババ・ブダンによる伝播

時は流れて17世紀。インド南部は、ヒンドゥー王朝であるヴィジャヤナガル王国(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A4%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%AB%E6%9C%9D)の支配下にあったが、1649年にスンニ派イスラム王朝であるビジャープル王国(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E7%8E%8B%E5%9B%BD)によって滅ぼされた。その後、1657年に即位したビジャープル王国のスルタン、アリ・アーディル・シャー2世と共に、一人のイスラムの行者がダダ・ハヤートの祠を訪れた。行者の名はサイード・シャー・ジャマルッディーン・マグリブ(Sayyed Shah Jamaluddin Maghribi)、またの名を「ババ・ブダン」と言う。彼こそが、後にコーヒーをインドにもたらしたと伝えられる人物である。


マグリブはイエメン出身で、やはりカランダールとして、放浪の果てにビジャープル王国に辿りついた。そこでアリ・アーディル・シャー2世に気に入られ、彼に師事することになる。彼に付き従って、インド南部を旅していたマグリブは、ダダ・ハヤートの祠に至り、この地に定住するとスルタンに申し出たのだ。スルタンは何とか引き止めようとしたが、マグリブの決心は固かった。おそらく同じようにアラビアからやってきて、当時もなお民衆に敬愛されていたイスラムの聖者、ダダ・ハヤートに感じ入るところが大きかったのだろう。マグリブはダダ・ハヤートの祠やそこに至る参道などを整備して、立派な聖堂として、改めて彼を奉ったのである*1。この作業には4年の歳月がかかったとも言われる。

マグリブは聖堂を整備するに際して「洞穴を通ってメッカに至っていたダダ・ハヤートから、祠の管理を命じられた」と称していたようだ。恐らくこのように説明することで、現地の人々に土着のダッタトレーヤー信仰も損ねることなく、スムーズに事が運ぶと考えられたからだろう。


聖堂を整えた後、マグリブは改めて自分の信仰を見直すため、メッカへの巡礼の旅に出た。メッカからの帰路、彼はメッカから南のイエメンに向かい、モカ港から海路、インド西海岸を目指すのである。このとき、彼はモカ港で7粒のコーヒーの種子を密かに入手し、自分の腹にくくりつけて、密かにインドに持ち帰ったと言われている。

彼は、祠の前にその7粒の種子を植えたが、そのうち成長して実を付けたのはたった一本だったと言われる。しかし、この一本に実った種子から、さらに新しい苗木が育ち、やがて祠のあるチッカマガルールから、マイソール地区、カルナカタ州全体へとコーヒー栽培は広まっていった。マグリブはその後、1713年(ヒジュラ歴1125年)に亡くなり、その遺骸もここに奉られた。これが、この聖堂が(元々はダダ・ハヤートの祠でありながら)「ババブダン廟」、この聖堂がある山が「ババブダン・ギリ*2」と呼ばれている所以にもなっている。


なお後の世になって、ダダ・ハヤートとマグリブは同一視されるようになったようだ。「ババ・ブダン」という名がどこから来たものかは定かではないが、メッカからコーヒーを持ち帰ったマグリブが「ババ・ブダン」と呼ばれ、メッカに至っていたダダ・ハヤートの再来として崇められたと言うことのようである。


上述したように、ババ・ブダンによるインドへのコーヒー栽培の伝播は、ある意味伝承めいた部分も多く、正確な年代などについてはよく判らないというのが正直なところだ。ただしコーヒーそのものは、遅くとも1616年までにはインドでも飲用されていたようだ。コーヒーノキの伝播は、上記のようにビジャープル王国のアリ・アーディル・シャー2世の時代だと考えれば、早くても1660年頃と考えてよいだろう。またその後、ビジャープル王国はムガル帝国アウラングゼーブによって、1686年に滅亡している。このことを併せて考えると、まぁ1670年という説は概ね妥当なあたりではないかと考察できる*3

*1:おそらくこの頃、この祠はヒンドゥー教の民による、ダッタトレーヤー信仰のための色合いを強めていたのだろうと考えられる。そう考えると、この再整備はヒンドゥー教で奉られていた祠を、イスラム教の聖堂に奉り直すものでもあったのだろう。

*2:「ギリ」は山、山の頂を指す語。

*3:なお、1676年にインドとペルシャを訪れたフランス人宝石商の記録で、これらの国でコーヒー栽培は行われていなかったというものがある。少なくとも、この年にはまだあまり広まってはいなかったのだろう。

ババ・ブダンのコーヒー

さて、このババ・ブダンが伝えたとされるコーヒーは「オールドチック Old Chiks」と呼ばれ、栽培品種に相当するものである。"Chiks"というのは、聖堂があるチッカマガルール (Chickmagalore, Chikkamagaluru, Chikmagalore, Chikmagalur) という地区名から来ている。


インドで最も古いと考えられるこの品種は、1820年以降まで栽培されていたものの、残念ながら現在はもう残っていない。1870年頃にインドでさび病http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100517)が流行したとき、さび病への耐性を持たなかったために、オールドチックのほとんどがやられてしまったと考えられている。また、ごく一部残っていたものについても、後にさび病耐性の品種として見つかったケントやS.795、あるいはロブスタやハイブリッド品種などに完全に置き換わってしまった。このため、その特徴や品質などについて知る手がかりは残されていない。


ただ、ひょっとしたら現在各地で栽培されている多くのコーヒーノキが、このオールドチックの子孫に当たる可能性もある。オランダ人が1696年と1699年に、ジャワ(インドネシア)に持ち込んだコーヒーは、インド西海岸のマラバールで入手されたものだと言われている。ひょっとしたら、このときのコーヒーがオールドチックだった可能性も残っている。もしそうだとすれば、このときの子孫の一つが、後にオランダからパリを経てマルティニーク島に渡った「ティピカ」である可能性もある。またインドネシアでわずかにさび病を逃れて残っていた「バーゲンダル」や「シディカラン」、そしてそれが後にブラジルやハワイに渡った「スマトラ」や「コナ」など、ティピカの系譜に連なる品種の多くもまた、このオールドチックの子孫なのかもしれない……そう考えると、この「オールドチック」への興味は尽きないのだが、元となるオールドチックが失われてしまった以上、比べて検証することはできない。返す返すも惜しまれる話だ。

さび病耐性品種の発展

オールドチックに代わって、1870年代からインドで栽培されたのが「クールグ Coorg」と呼ばれる品種である。おそらくはオールドチックに由来すると思われるアラビカ種で、比較的標高の低い、クールグ地区の農園で見いだされたことから、この名がある。クールグは当初、さび病に強いことから、オールドチックの代わりに栽培されていったが、品質的にはあまり高くはなかったようだ。しかも数十年経つと、クールグもまたさび病にやられてしまう。クールグの耐性は部分的なものであったため、後に出現した新型さび病の前に屈してしまったのである。


クールグに代わって、1920年代から栽培されるようになったのが、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100613
ケニアの回でも触れた「ケント Kent」である。1911年、インドのマイソール地区にあったケント氏の農園で発見された耐さび病品種である。ケントは当時インドで栽培されていた、いずれかの品種が突然変異して生じたものだと考えられている*1。しかし栽培されるようになって10年ほど経つと、ケントも新型さび病の前に屈してしまった。


1925年、イギリス統治下のインドでCoffee Board of Indiaが設立され、耐さび病品種の本格的な研究が始められた。インドには、リベリカやロブスタをはじめ、後にはエチオピアからの探索で得られたアガロやカファなど、さまざまな品種が集められ、選抜と育種によって耐さび病品種の開発が行われた。その過程で有望なものとして見いだされたのが、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100517)述べた「Sライン」の品種群、特にS.288S.795*2である。


インドにおける耐さび病品種の開発からは、その候補になると有望視された品種がいくつか見いだされた。しかし残念ながら、すべてのさび病に対して有効な品種の発見では、ポルトガルに先を越されてしまう。ポルトガル東ティモールの農園で「偶然」発見された一本のコーヒーノキ「ハイブリド・デ・ティモール」はさび病に対する「救世主」になり、耐さび病の研究という面でも、ポルトガルのCIFC (Centro de Investigacao des Ferrungens do Caffeiro)が世界の中心的な役割を担うようになった。ただしインドでの研究成果はCIFCにおける研究の基礎として、さび病のみならず、後の遺伝学的、分子生物学的な研究へもつながっているのである。

*1:その耐さび病遺伝子はSH2と名付けられた優性の遺伝子であり、ケントあるいはケントに由来する品種(S.795やケニアK7など)だけに見られる。

*2:"S."はSelectionの略。

インド・モンスーン

「品種」とは少し違うのだが、インドには「モンスーンド・コーヒー Monsooned Coffee」あるいは「インド・モンスーン」と呼ばれる独特のコーヒーがある。これはインドからヨーロッパに運ばれていた当時の、伝統的な製法に従うものとされている。「モンスーン」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%B3)というのは、いわゆる「季節風」のことであるが、ここでは特に、夏期にインド洋からインドの内陸部に向けて吹く、南西の季節風(インドモンスーン)のことを指す。インド洋の湿った空気を大量に含んだ季節風は、インドに雨季をもたらすものである。


元々「モンスーンド・コーヒー」とは、このモンスーンの時期に収穫され、船便でヨーロッパに送られていたコーヒーを指す。ただし、それは単に「モンスーンの時期に収穫された」というだけのことではない。インドの「モンスーンド・コーヒー」とは通常の生豆より大きく膨らみ、生豆の色もしばしば通常より白みがかっている。当時これは、湿気を含んだ潮風に生豆が晒されることで生じる変化だと考えられ、この「モンスーン処理 Monsooning」を受けることで、インドのコーヒーは独特の風味を生じると考えられていたのである。


近年、インドの研究グループが、この「モンスーン処理」について、いくつかの研究を報告している。その結果、彼らが発見したのは「果実から生豆を精製するまでの保存期間」に生じる変化であった。モンスーンド・コーヒーの場合、収穫された果実はそのまま麻袋に詰めて平積みにされた状態でしばらく置かれ、しかる後に精製されるのだが、この「平積み」のときに、モンスーン気候独特の高湿度の環境に晒されることが、「モンスーンド・コーヒー」が出来るために重要であることが判明した。近年では、より効果的に「曝気」するため、麻袋の間には空気の通り道が出来るように積み上げられるという。いずれにしても、この季節に収穫されたインド南西部のコーヒーだけに可能な「処理」である。


高温高湿の状態で積まれている間に、果実の発酵*1は進み、生豆の水分含量も通常であれば10-12%になるところが、18-20%にまで上昇する。これによって、生豆は大きく膨らみ、また果実の発酵に伴って独特の香味が生じると言う。少し詳しい人ならば、近年実用化されているパルプド・ナチュラル方式の生豆精製を思い浮かべるかもしれない。近年のインドでは、この独特の風味に注目し、モンスーンド・コーヒーを「スペシャルティコーヒー」の一つに位置付けている。

*1:発酵というと、欠点豆である「発酵豆」を連想するものもいるかもしれないが、ここで起こるのは別物である。水洗式での粘質層の水中微生物による分解も「発酵」であるように。