出イエメン記

エチオピア南西部で生まれたコーヒーノキ「アラビカ」は、やがてイエメンに運ばれ、人々が愛飲する「コーヒー」の元として、人為的に栽培されるようになった。イスラム圏の人々から、やがてヨーロッパの人々までが消費することになり、イエメン(そしてエチオピア)では高地でのコーヒー栽培と、港湾部でのコーヒー豆の輸出が、一つの産業として確立される……「モカ」の隆盛である。やがて、このコーヒーがイエメンを出て世界中に広まっていくのだが、その道は曲がりくねってるどころか、そもそも「一本道」でもない。

イエメン人は豆を煮た?

イエメンでは、このモカコーヒーが生み出す利益を独占するために、コーヒーノキの苗木や種子の持ち出しを禁止した、とされる。一説には、出荷するコーヒー豆まですべて熱湯で処理して芽が出ないようにしていた、とまことしやかにささやかれている。が、この説は今日では、まぁ単なる噂にすぎないものだろう、と考えられている。


現在も、ネット上では「焙煎用に売られてる生のコーヒー豆を植えるとコーヒーノキが育つのか?」という質問を時折見かける…「シンプルな答え」としては「ノー」なのだが、細かく突き詰めると実は「100%ありえない」とは言いがたい……しばしば「精製してパーチメント(殻、種皮)を除いたものは発芽しない」と回答してる人もいるが、それも厳密には誤りだ。「可能性は非常に低いが、ゼロではない」というのが正しい答えだ。

発芽そのものにはパーチメントは必須ではないし、それどころか播くときには、パーチメントを取り除いたものの方が発芽しやすいという話もある*1。しかし、一度パーチメントを除いてしまうと、生豆に鎮座している小さな「胚芽(胚)」がそう長くはもたない。
ロブスタなどと比べれば、アラビカの種子はコーヒーノキの中ではかなり長持ちする方で、パーチメント付きの状態なら、2年くらい経った種子でも発芽率は結構高い方だ。しかし、パーチメントを除いたまま放っておくと、胚芽の生存率(≒発芽率)は数日〜数週間単位で、あっというまに低下してしまう。このときの主な死因は、胚芽が乾燥してしまうためだと言われている。さらに精製過程で熱風乾燥をかけてたりすると、まぁまず胚芽が生き残ってるものはないだろう。

なので、通常焙煎用として売られている生豆だと、ほとんどの場合とっくに胚芽が死んでいて、発芽することはない。ただし、それでもごくまれに胚芽が生きている豆が残ってる場合がないとは言えないし、収穫されてからあまり時間の経ってないものほどその率は上がる…と言っても結局、可能性はごく僅かで、山ほどの生豆を播いて芽がでるものがあるかどうか、といったところだろうが。


当時のイエメンのコーヒーは、今日でいうところの乾式と同じように、乾燥させたコーヒーの実とパーチメントを一緒に砕いて、種子の中にある「胚乳(さらにその中に胚芽がある)」=「生豆」を取り出したものだったと考えていいだろう。果実とパーチメントは専ら現地で「ギシル」として利用され、生豆は現地消費と輸出の両方に回された。モカ全盛期、イエメンでは苗木と種子の持ち出しは原則として禁止だったろうし、現在よりもはるかに輸送に時間がかかった当時ではなおさら、旅の途中で胚芽が死んでしまって、届いた「生豆」をいくら播いたところで、ほとんど発芽することはなかったろう。

さらに種子の持ち出しが禁止されていたため、イエメン以外では「本物のコーヒーの種子=パーチメントコーヒー」を見る機会もなく、実際に輸入されてきた「生豆」を「コーヒーの種子」の本来の姿だと思った者も当時のヨーロッパには多かったのではないだろうか…「(実は生豆なので当然だが)このコーヒーの種子はいくら播いても芽が出ない → きっとイエメン人は種子に何か細工してるのだ」と。さらに妄想をたくましくするなら、ひょっとしたらイエメンを訪れた当時の人は、ギシルを作る様子を目撃して「生のコーヒーを煮てる」と勘違いした者もいたかもしれない。


ともあれ、「発芽しないように熱湯で処理してる」という風説は、このような誤解から生じたのではないかと考察する。イエメンからみると、根も葉もない噂であっても、それで「生豆を播いて試してみる人」が減るのなら好都合だったわけで、わざわざその誤解を解いてやるべき理由もなかったろう。

*1:一つには、パーチメントが物理的な「障壁」として豆への吸水や芽の生長を妨げるから、と言われている。また、化学的にも、クロロゲン酸類やカフェインなどがパーチメントに高濃度で残存することで、発芽が抑制されるという説もある。

盗んだティピカが巡り出す

「盗んだ」というのはいかにも聞こえが悪いけれど、イエメンで持ち出しを禁じていたため、最初期のコーヒーノキの伝播はいずれも「種子や苗木をこっそり盗んで、こっそりと持ち出した」ものだった。今日的な観点から、あるいはイエメン側から見れば、ただの「盗み」かもしれない。だが少なくとも当時は、そして持ち出した国の側から見れば、それは大いなる挑戦であり、彼らは「成功した冒険者」でもあった。

「回僧ブダン?」の伝説

イエメン外に持ち出された記録で、もっとも年代が古いのは、インドからメッカへの巡礼者ババ・ブダンが、その帰りに7粒の種子*1をこっそり持ち帰り、インド・マイソール地方に植えた、というものだ。ただし、史実としてはあまりはっきりした証拠が残っておらず、年代についても1600年と1695年の二つの説がある*2。仮に後者だとしたら、それはオランダによる持ち出しよりも時代が新しいことになる。

「ひょっとしたら」の話だが、この二説の裏に「コーヒーを持ち出した『一番乗り』争い」があったのかもしれない。オランダは当然、自分たちこそが「最初」である…つまり「最初にコーヒーノキをイエメンから持ち出した(1616)」「最初にイエメン以外での栽培に成功した(1658, セイロン)」「最初にイエメン以外での商業化に成功した(1699,ジャワ)」ということを主張したかっただろうし、そうなると自分たちより以前にインドに渡っていたという説は受け入れがたかったに違いない。このことが、ひょっとしたら「インド、1695」という説を広める上で一つの動機になったかもしれない。

ただしもう片方の説もあやふやだ。ヨーロッパの記録に残らないような形で、イスラム圏で伝播されていた可能性は、確かに低いとは言えないし、説得力もある。どうやらオランダが持ち込む以前に、インドに「コーヒーノキ」らしきものがあった、というのは確からしいのだが、これも元々、インドに自生していたベンガルコーヒーノキ*3のことを指している可能性もあって、はっきりそうとは言えない。さらに、それをもたらしたのがババ・ブダンだったのかどうかも、本当のところは判らない、というのが現状だ。


今日「科学の力」で確かめようにも、インドでは1800年代にさび病の蔓延で壊滅的な被害を受けたのに加えて、その後、耐病性品種の探索と研究が行われていく過程で、古い品種がすべて失われてしまっている。こうなってしまうと、残念なことに遺伝子解析による裏付けも取れない……今後もし、インドの山奥に残された「古いティピカ」が見つかるようなことがあれば、非常に大きな発見につながる可能性が期待できるのだが。

盗みとるオランダ人

まぁババ・ブダンの伝説の真偽は大いに興味があるところではあるが、検証できないものに拘っていても進まない。次の「盗人ども」の話をしよう…オランダである。オランダはヨーロッパの中でもいち早く、商品としてのコーヒーに着目した国である。1616年にはピーター・ファン・デン・ブルックが、実の付いたコーヒーノキの苗木を「こっそり」イエメンからオランダ本国に持ち帰っている…これがヨーロッパに届けられた最初のコーヒーノキであった。

さらに、オランダは1640年頃からイエメンからの本格的なコーヒー輸入を行うようになり、おそらくはその取引を通じて知り合ったイエメン人の誰かから、こっそりコーヒーノキや種子を入手可能になったのだと考えられる。これらの取引は基本的に「民間企業」である、オランダ東インド会社が仕切っていたが、国家としても植民地政策としてコーヒー栽培に着目していたのは、言うまでもない。


1658年、オランダはイエメンから「こっそり」コーヒーノキを持ち出し、セイロン(スリランカ)での試験栽培に成功する。一説にはこのときのコーヒーノキがインドに伝えられ、インドのアラビカの起源になったとも言われる。


1690年、後にオランダ東インド会社総督になったジョアン・ヴァン・ホールンhttp://en.wikipedia.org/wiki/Joan_van_Hoorn)が、イエメンの貿易商からコーヒーの種子を「こっそり」入手し、それをジャワ島のバタビア(当時、オランダ東インド会社のジャワ本拠地があった)に持ち込み、彼の家の庭に植えた……これがインドネシアに初めてもたらされたコーヒーだと言われる。

一説には、後にオランダ本国に持ち込まれた一本のコーヒーノキがこのときのものの子孫だと言われる…もしこの説が正しいなら、リンネがCoffea arabicaと名付けた植物も、やがてド・クリューがマルチニーク島に運び、中南米のティピカのルーツになった苗木も、すべてがこのときの子孫ということになるのだが、まぁこの辺りも本当かどうかよく判らない部分の一つだ。

というのは、ジャワへのコーヒーノキの持ち込みはこの1690年だけではなく、その後も何度か行われてるからだ。最終的に成功をおさめたとされるのは、1699年、インドのマラバールからジャワに送られたときのもので、このときの子孫がジャワ全土に広がっていったと考えられている。このマラバールからジャワへの輸送は、完全にオランダの手の内の出来事であり、「真っ当な取引」の範疇で、そこに「盗人」の活躍はない。

ただし、そもそもマラバールにあったコーヒーの出どころがどこなのか……ババ・ブダンがインドに伝えていたものなのか、こっそりセイロンに持ち出された後でインドに渡ったものなのか、あるいはヴァン・ホールンがこっそり入手していたものの子孫か、またはこの年にまた新たにイエメンから「こっそり」持ち出されたものなのかもしれない。

しかし、そのどれだったのかについては、何の証拠もない今となっては判らない。というより、足がつくような証拠を残すようでは、盗人としては三流だろうから、証拠がないのが当たり前なのだろう。後から検証しようという僕らにとっては厄介な話ではあるが。

(番外)一方、パリェタは

少し時代は下り、「出イエメン」とは無関係な余談になるが、「こっそり持ち出した」という話であれば、ブラジルへの伝来時のエピソードも忘れてはなるまい。

フランス海軍将校ド・クリューは、コーヒーノキ中南米に伝えようという強い決意のもと、再び大海原に乗り出した……パリの植物園から譲り受けた、たった三本のコーヒーの苗木。大西洋を渡る数ヶ月の航海の間、これを枯らさずに運ぶのは並大抵の苦労ではなかった。時には、同じ船に乗り込んだ乗員たちが苗木にいたずらをすることもあったし、船に積んだ真水が不足して飲み水が配給制になったときは、自分の飲み水を苗木に与えたりもした。そして、ついにド・クリューはマルチニーク島にコーヒーノキを伝えるのに成功したのである……


一方、パリェタはフランス領事夫人をたらしこんだ*4

中南米にコーヒーが伝えられたときのエピソードとして、もっとも有名なのはフランスの海軍将校ド・クリューの話だろう。有名すぎてわざわざ説明するのも面倒なくらいだが、概略としては、まぁ上に書いたような感じ。これが中南米のティピカのルーツである、ということは、まぁ概ね正しいだろうが、実は中南米には、ド・クリューの航海よりも前にコーヒーノキが伝わっている。
一つはフランス領だったハイチ。もう一つはオランダ領だったスリナム(蘭領ギアナ)である。1718年スリナムに移入されたコーヒーノキは、1725年に東の隣国、仏領ギアナに「こっそり」持ち出され、さらにそれが「こっそり」ブラジルに持ち込まれた。このときブラジルに持ち込んだ立役者がフランシスコ・デ・メロ・パリェタである。

このエピソードも、ド・クリューの次くらいに有名なので、かいつまんで言うとこんな感じ。

1727年、スリナムと仏領ギアナで国境問題が勃発したとき、当時ポルトガル領だったブラジルから、調停役としてのパリェタが送り込まれた。当時まだコーヒーノキを入手できていなかったポルトガルはパリェタにもう一つの密命として、その入手を命じていた。
美男子だった(といわれてる)パリェタは、フランス領事夫人と懇ろになり、コーヒーノキを何とか手に入れようとする…が、当時仏領ギアナでもコーヒーは持ち出し禁止。そこで夫人は一計を案じ、彼がブラジルに帰る日に花束を渡す……5本のコーヒーノキの苗を忍ばせて。そして、パリェタはまんまとコーヒーノキを入手し、それをパラ州に植えた…これがブラジルコーヒーのルーツである。

「ロマンチックな話」と捉えるか、「一人の女たらしの話」と捉えるかは、まぁ人それぞれであろう。が、この話はブラジルのコーヒー関係者にとっては「国の誇り」に関わる話だと言うことは、知っておいて損はあるまい。というのは、このエピソードは、南米のコーヒー産地の中で「ブラジルは独自に、最初期からコーヒー栽培をはじめていた*5」という証拠だからだ。

*1:コーヒーの実ごと持ち出したとも言われる

*2:アントニー・ワイルドは、1695年を「文献上でインドにコーヒーノキがあったことが記されてる最も古い年代」としているが…。

*3:現在はPsilanthus属に分類されている

*4:わかる人にはおわかりだろうが、「一方ロシアは鉛筆を使った」が元ネタ。

*5:「コロンビアやコスタリカとは違うんです」ということ。

紳士的コーヒー

このように、コーヒーが世界に広まり出した18世紀、その伝播のほとんどは「盗人」たちの非紳士的行為によって行われていた。が、たった一つだけ例外がある。フランスである。当時フランスは、唯一「合法的に」イエメンからコーヒーノキを持ち出すことに成功した…それがブルボンだ。


まさに「ブルボン朝」の時代、フランス本国には、1714年にアムステルダムからパリ植物園に一本の若木が送られていたということは、以前(http://d.hatena.ne.jp/coffee_tambe/20100501)述べた。そして、この木はルイ14世の大のお気に入りになった。

そして同年、ポンシャルトラン伯ルイ・フェリポーが王の代理として、ブルボン島に向かうフランス東インド会社の船数隻に宛てて、書状で指示を送っている…「イエメンでコーヒーノキを手に入れて、ブルボンに運べ」と。

持出禁止なのにそんな無茶な、と思いきや、これがあっさりと上手くいってしまう。というのは、実は当時のイエメンの領主、1712年に中耳炎をこじらせていた*1ところをフランス人に救われていて、大のフランスびいきだったからだ。そのおかげで、アンベール(Imbert)という名のフランス人商人が1715年、60本ものコーヒーノキを賜り、それをブルボン島へと運んでいった*2


とはいえ、航海が過酷だった当時のこと。ブルボン島に辿り着いたコーヒーノキは20本だったという。これが、ブルボン島にあったフランス人宣教師たちの伝道所に分けて配られ、ブルボン島の地に植えられることになった。しかし、イエメンとは気候が大きく異なるブルボン島で根付いた苗木はたったの二本。さらにそのうちの一本も途中で枯れてしまったらしい。

それでも、1718年にはたった一本の生き残りと共に、100本余の苗木の姿が島にはあった。そして翌々年には7000本にまで殖やしていくことに成功。ブルボン島は一大コーヒー産地として発展を遂げていった……これこそがアラビカ二大品種のもう一つ、「ブルボン」の起源である。


その後、フランス本国でブルボン朝が滅亡し、島の名前がレユニオン島に変わっても、そしてレユニオン島自体のコーヒー栽培が廃れてしまっても、このときの「たった一本」の子孫は「ブルボン」という名前でブラジルにわたり、あるいは東アフリカにフランス人宣教師が伝え、「フレンチミッション(=フランス伝道所)ブルボン」という名で、ケニアタンザニアで栽培される。その後ティピカとともに、これらの地域からさらに世界中に広まっていくのは周知の通り。


ティピカに比べると、ブルボン伝来の経緯に関する文献はきちんと残っていて、信憑性が高い印象を受ける。これはひとえに「紳士的に」、きちんとした手順を踏んで持ち出されたことで、「きちんとした記録」が残されたことに尽きると言っていいだろう。

こうして世界各地に広まったコーヒーノキによってイエメンによる独占は崩壊する。当然のごとく、やがて持出禁止も意味をなさなくなり、19世紀になってからも幾たびか、品種改良や新興産地での栽培のため、「合法的に」イエメンからコーヒーノキの種子や苗木が持ち出され移植されていったのである。

*1:乳様突起炎、ear abscess といい、中耳炎の後で、耳の奥に細菌が入って炎症を起こし膿みがたまる病気。その当時はもちろん比較的最近、抗生物質が見つかるまでは命に関わる病気だった。

*2:…という記録が、「1717年に書かれた文書」に残されている。ブルボン島への伝来を1717年と書いてる本が散見されるけど、多分そこから来た誤解。